コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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大学生協の発展と地域生協設立支援活動(続き)

斎藤 嘉璋
5月20日掲載のオウエン協会研究集会での報告「大学生協の発展と地域生協支援活動」の続きです。
当初、3回に分けて掲載予定でしたが、ここに後半すべてを掲載しました。

大学生協の発展と地域生協設立支援活動(続き)

2、大学生協による地域生協新設・再建支援の経過

1)50年代から60年代の取り組み
 ①50年代の初期的取り組み
  大学生協が組織的に地域生協の設立などの支援活動に取り組むようになるのは60年代からですが、その前から大学生協の経験者が生協の連合会や地域生協に転出するといった事例はかなりありました。
 東大生協の創立メンバーである勝部欣一さん(日本生協連副会長)は49年に日協同盟に就職し、少しおくれて同じ東大生協からは福田繁さん(日本生協連専務理事)や坪井俊二さん、大谷正夫さんが、早大生協からは岡本好広さんや谷川宏さん(4人は日本生協連常務理事)が50年代に日本生協連に入っています。地域生協へは早大生協の創立メンバーで「全協の再建者」であった森定進さん(日本生協連副会長)が54年に武蔵野生協に入っており、同じころ川崎生協にも学生理事経験者が入っています。
関西では同志社大学生協から横関武さん(京都生協理事長、日本生協連副会長)が57年に神戸生協へ、つづいて竹本成徳さん(コープこうべ組合長、日本生協連会長)や友貞安太郎さん(日本生協連常務理事)が神戸生協に入っています。
 大学生協が地域生協づくりに着手した最初は、53年の東大生協による氷川下生協でした。当時の東大生協は経営的に苦しいなか「混迷からの脱却」、「真の生協運動のあり方」をめざし、横浜生協などの見学や戦前からのリーダーとの懇談などを重ね、地域に運動を広げることにしました。利用者のいない「夏休み対策」がもう一つの動機でした。経営的に厳しいなかで反対論もあり、派遣されることになった中山久枝さん(塚崎宏専務夫人)は「東大生協を退職する。半年は給与を持つ」条件でした。徳永直の「太陽のない街」で知られる氷川下での活動は苦戦が続きますが56年に生協設立となり、62年文京勤労者生協と改称、
78年には戸山ハイツ生協とともに都民生協と合併、その歴史はコープとうきょう(現コープみらい)に引き継がれました。
 60年代最初の事例としては61年設立の東京労信販生協への大学生協からの幹部人事派遣があります。この生協設立は東京都生協連が参加する東京労福協が進めたもので主体は東京地評でしたが、東大生協出身の桐原良彰さん(都民生協理事長)が常勤常務となり法政大と早大の生協から幹部職員が派遣され、東北大を卒業してすぐの浅井康男さん(東京都生協連会長)も入りました。しかし、この生協は桐原さんなどの期待した地域化はせず労組主体の信販事業にこだわったため、大学生協からのメンバーは数年で撤退しました。
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なぜ   フクシマか

大きい文字[haru3]

なぜフクシマか 
  53基の原発、世界有数の地震国にて

フクシマ抜きの政治ってなんですか
フクシマを忘れてどんな未来ですか
被災者の目を通してみた原発
被災地の様子が語る原発の実相

被曝者の人に耳を傾けたい
水素爆発の振動で畳が盛り上がり、放射線に追われて避難した人たち
イデオロギーではなく命に直結する事実認識の問題として
原発を推進する日本に生きるのか、脱原発の世界に生きるのか いま岐路。

自分お待ちにに避難したAさん・同じ集落の人たちの証言に耳を傾けたい
避難したAさんにつながる16万人の避難者の一人
佐藤紫華子作 「原発難民の詩」 を受け止めたい   
救いたまえ
クリーンエネルギーと唱われて
もてはやされて
今ここに
無残な姿を曝け出して
いるのは何故?

絶対と完璧などは
あり得ない
ゆめゆめ心して
みじめな姿を
救いたまえ

天国が地獄と化した
絵巻図
今も灼熱
その中で働く人々の
命を救いたまえ

それでも「日本の原発は世界1安全」と世界に売り込むのですか 
朝日新聞出版  1100円  佐藤紫華子(しげこ) 1928年生まれ 
3月11日の原発事故で富岡町から避難、9月からいわき市の仮設住宅に住む 
私の町に避難されたA夫人の20年来の華道、茶道の師匠 尊敬する方
          

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真相を語る双葉の被曝者。


(haru3)

貴方への手紙           
 前略をお許しください
始めに  
世界最悪の原発過酷事故下にあって 住民サイドで記録したものをメールで送ります。 原子炉内のことについていろいろ言われていますが、被災をまともに受けた人間の記録が十分伝わっていません。これでは福島を風化させます。犠牲者を見捨てることになります。また災難・人災から学びとる機会を失ないます。辛酸の中でしたためつつある被災地・被災当事者の記録は 今生きるすべての3世代・次の世代の平和への警鐘です。海・山・川・緑・すべての生き物の大切さをきずかせる警告書です。そんな方との出会いから学んでおられる皆さんに私も仲間入りしたいと思います。お二人を紹介します。
  (奇しくわが町に避難しているAさんと家族ぐるみの付き合い同じ集落のかたでした。)

一人は水素爆発のさなかで の行動記録
ラジオにノイズが入るほどの放射線量のすざましさ、猫が高く飛び上がり、畳が風振動で盛り上がり…降下物がおりた様子を・・放射線が福島地域で最高位を記録した双葉郡上羽鳥地区(私のまちに避難されたAさんが住んでいた近くのモニターポストで記録)での体験と双葉町周辺のまち町に残っている人の救援など、その前後を放射線技師として克明に記録しています。氏はたっぷり放射線を浴びながら放射線技師として覚悟を決めて備忘録(3・11からの行動記録)をしています。現在氏はPTSDにかかっています。
添付をご覧ください
「もう二度と誰も経験できないたった一度の事と思いますので、大いにご活用いただければ幸いに存じます。松木」と述べています。

もうひと方は  双葉ネットの代表
8年間 放射線を浴びながら「線量数値」の改ざんし(解雇を恐れ)、青森6か所村で働き 3・11の大震災の発生で  故郷双葉郡上羽鳥地区の家族を案じて戻った後の記録です。政府の収束宣言の裏での 避難所生活、厳しい生活・除染作業の実態。労働・作業の過酷等々の実態を仲間のブログや連携で立ち上げた双葉ネットの代表です。
報告書修正版http://yahoo.jp/box/ZBwE35          を開くと 福島県真実の報告書.pdf(石澤さんのマイボックス)がでます。それをダウンロードしてください
・事実の発信をするだけです。皆からの情報を精査し、発信しています
真相を映す鏡としての双葉ネット

私は双葉ネットは原発施策の一つの鏡だと思いました。不正汚濁にまぶれた事実、真相を映す鏡。誰もごまかせない事実です。真実を隠すことは許されません。なのに隠す。福島地域で最高位を記録した双葉郡上羽鳥地区の1590μSv/hを1年半後になって発表したり、水素爆発の世界最悪のレヴェル7の重大事故なのに「事象」ということばで隠し続けた。氏は国民の前に原子力行政の実相を示してくださった。体調を極度に崩している・そうした中で双葉ネットをだした。貴重です。(毎日新聞5月5日号添付参照してください。

お二人に耳を傾けながら

この五月安倍首相は経団連会長共に訪れたアブダビで「災害を経て日本は世界一安全な原発を提供できる」と「講演」ついで訪れた
自信多発国トルコとは原発輸出協定を結びました。
同じ週私は上記お二人はじめ双葉町の方からの証言を聞きました。片や何の罪もない人たちが地獄と言ってよい生活を送り、片や地獄をもたらした原発責任のの解明抜きに利権を求め原発推進、原発輸出という死の商人になっている・・・・人間として考えれば・この非情・不条理が許されるものではない、後者は原発推進と平和憲法改憲を一体にして進めている。私はお二人をはじめ双葉郡・福島の被災者に耳を傾けその事実が如何に平和憲法を蹂躙するものかを確認し、原発ゼロと平和憲法を守る側で生きたい。それが人の道だと思うから・
    手始めに四街道・千葉と双葉をつな情報センターから 始めたい。

附 1 備忘録(3・11からの行動記(添付)

    2 http://yahoo.jp/box/ZBwE35

上記をよんで転送する価値が在ると思われた方はそれをあなたの愛する人・大事な仲間に転送くださいませんか。
できれば二人に 2行でも10行でもメッセージいただければ幸いです(記名・無記名は自由です)
高橋 晴雄 Tel&Fax 043-432-6231 携帯  090-3082-5322 e-mail: 
 dogcat@dp.u-netsurf.ne.jp 

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大学生協の発展と地域生協設立支援活動

斎藤 嘉璋
この原稿はロバアト・オウエン協会の公開研究会(3月28日)「創生期の大学生協運動とその展開」での斎藤の報告です。同公開研究会では「1950年代、60年代の政治動向と社会状況」(岩垂弘氏)、「当時の学生生活と大学生協の役割」(岡本好廣氏)の両報告に続いて報告し、あわせて参加者による質疑、討議がありました。
この報告の時間が30分しかなく不十分だったこととこのテーマに関心がありながら参加できなかった人から内容を知りたいという声もあるのでここに掲載することにしました。この共同ブログ「コラボ・コープOB」のメンバーは大学生協から地域生協づくりに関わった人達なので、私のこの報告をたたき台に当時の歴史を検証し、自らの経験や想いを寄せていただければいいなという期待もあります。
報告は「1、1960年前後の大学生協、2、大学生協による地域生協新設・再建支援の経過、3、大学生協が果たした役割、4、大学生協の果たした役割の背景と要因」の4節ですが、3回にわけて掲載します。
60年代からの大学生協の地域生協支援の活動は日本の生協運動の本格的な発展に大きく貢献しており、その成果や問題点は今「総括」すべき時点にあると思います。これを読まれた皆さんからこの報告に関し、事実誤認のご指摘をはじめご意見ご感想をいただければ幸いです。「コメント」やメールでのご意見をお待ちします。


大学生協の発展と地域生協設立支援活動

1、1960年前後の大学生協
全国大学生協連が創立15周年を記念して発刊した「大学生協15年のあゆみ」は1957年の比叡山大会以降の数年間を「もっとも充実した時期」と書いていますが、私が学生理事として早大生協と大学生協連に関わったのはそのような時期でした。
「全協」あるいは「全学協」とよばれていた大学生協連の第10回大会(比叡山)では、教育環境整備運動・消費者運動・平和と民主主義の3本の柱を大学生協の基本路線としてかかげ、学生自治会などの取り組む学生運動との違いをはっきりさせました。教環運動の主なテーマは貧困な厚生施設の充実を求めることであり生協が運営する食堂等の施設の獲得・拡充闘争として展開され、消費者運動としては新聞代値上げ反対闘争などこれまで学生運動にはない取り組みがされました。平和・民主主義闘争では勤評、警職法から安保改定反対が取り組まれましたが、これらは自治会などとも共同しましたが、徐々に生協の独自性を強めていきました。
1958年には「全協」は法人化し「全国大学生協連」になり、早大生協なども法人化しますし、それまでの学生専務制から専従専務制への移行が進みます。これまで早大生協では総代会でトップ当選した学生理事が専務になる慣習でしたが、法人化を決めた59年度総代会でトップ当選した私は専従枠選出の森定進さんに専務理事をお願いしました。
この時期の大学生協の特徴は次のように言えます。
① 大学生協の学内外での地位の確立
3つの柱の取り組みで「生協らしさ」を確立し、専従体制を確立し事業経営の強化・安定をはかり、法人化などを契機に教職員をふくむ全学組織になっていったことなどから大学当局はじめ関係諸方面からの評価を得て、社会的な地位を確立していきました。
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賀川豊彦に関連してー「わが妻恋し」ほか

斎藤 嘉璋
賀川豊彦に関連してー「わが妻恋し」他

*先に掲載した「もう一つの賀川豊彦像」の記事について「賀川豊彦のご長女のお名前は、賀川富美子さんではなく、冨沢千代子さんです。結婚後の姓と名前がごっちゃになって記憶されているのではないでしょうか。」とのコメントをいただきましたが、その通りですので訂正いたします。手元にある賀川関連の本を調べ、記述の間違いを確認しましたが、困ったことになぜ間違えたかわかりません。訂正記事のついでに、賀川関連の2冊を紹介させていただきます。

*「わが妻恋し」(加藤重著、晩聲社)
賀川豊彦の妻・賀川ハルの伝記。賀川豊彦は1960年4月に亡くなるが、日本生協連の会長だったので、その年に日本生協連に入った私は機関誌「生協運動」の取材のため当時の幹部に連れられ松沢のご自宅にハル夫人をお訪ねし、いろいろとお話を伺いました。新川の貧民窟時代に結婚されたハル夫人のお話は、この人があって賀川ありの感を抱かせるものでした。ハル夫人はその後、日本生協連の顧問として総会などに出席もされましたが、ちょうど31年まえの1982年5月に逝去されました。ハルは豊彦がベストセラー「視線を超えて」を書いた年に自分も「貧民窟物語」を出版し、平塚らいてうや市川房枝などの「新婦人協会」に参加し、神戸で「覚醒婦人協会」を結成するなど、夫人としての内助だけでない活動を展開しています。この本はそのようなハルの生涯を書いた本で、賀川豊彦を知るためにも貴重な1冊です。
「わが妻恋しいと恋し・39年の泥道を・ともにふみきし妻恋し、
工場街の裏道に・貧民窟の街頭に・ともに祈りし妻恋し、
憲兵隊の裏門に・未決監の窓口に・泣きもしないでたたずみし・わが妻恋しいと恋し(中略)
財布の底をはたきつつ・書物数えて売りに行く・無口な強き妻恋しーー(後略)(1950年、賀川豊彦)

*「賀川豊彦」(隅谷三喜男著、岩波現代文庫)
コープ出版から賀川豊彦の著書「友愛の政治経済学」(2009年)に続き「協同組合の理論と実際」が出版されました。後者には「賀川豊彦・人と働き」があり、賀川と多彩な活動の概要がわかるようになっていますが、賀川の直接書いたものはその基礎に宗教性と主観哲学があるためなかなかわかりづらいと思います。私は賀川の協同組合論などを読むと「社会科学的でない」ということで理解ができきない、というか抵抗感をつよく感じました。
この本の著者・隅谷三喜男(東大教授、東京女子大学長など)は労働経済学が専門であり、この本は賀川についての「社会科学者の手になる本格的評伝として唯一の書」(解説)といわれます。賀川は救貧運動からはじまり労働運動、農民運動に力を注ぎましたが、それらから手を引いいたあとも協同組合については亡くなるまでかかわっていました。諸運動との関わりや決別、その思想的政治的背景など労働運動史に詳しい筆者の評価は賀川個人の歴史としてだけでなく勉強になります。ただ、協同組合に関する記述は少ないので、その点はコープ出版の前記2冊が参考になるでしょう。
 貧困や格差を憎み、反戦平和を願った賀川が現在の日本の動きをどうみているか?協同組合を社会改革の柱の一つとしその社会的使命・ミッションを強調してやまなかった彼の想いをどういかすのか?読みながら考えたいものです。

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もう一つの賀川豊彦像

00-賀川像正面 019 (2)
斎藤 嘉璋
<このブログは都合で休みが続き申し訳ありません。新しいメンバーを加え出直す
ことも検討していますので、しばしお許しください。なお、この記事は「久友会だより」
なるものに載せたものですが、ブログで公開せよとのご意見もあり掲載します。>

消えたもう一つの賀川豊彦像
                       写真と文  斎藤 嘉璋

 渋谷のコーププラザの玄関フロアには賀川豊彦像がある。他にもあるのではないかと思うが、私が知っていたもう一つの賀川像、東京医療生協の中野総合病院の前の桃園川緑道脇にあったその胸像が姿を消した。残念ながら銅のかたまりに還元されてしまったようである。
 すでにこの件は一部に知られているようであるが、昨年、たまたま撮った写真と一緒に私の因縁話として記録しておきたい。

因縁話① はじめての生協、賀川豊彦
 半世紀も前の話。私が高校を出て上京し転がり込んだ兄たちの下宿は中野区橋場町の「中野組合病院」(まだ「総合病院」ではなかった)のすぐ裏手にあった。風邪をひいてそこを訪ね、初めて「生協」というものを知った。病院には創業者であった賀川豊彦のことなども掲示されており(像はまだなかった)、賀川が小説家ではなく生協なるものに関係があるようだとおぼろげな認識もした。
 その後、1960年に日本生協連に入り、最初の仕事がその春に亡くなった賀川豊彦の雑誌「生協運動」での追悼記事の編集だった。認識不足のまま、ハル夫人の思い出話などを記事にする手伝いをした。中野組合病院は医療生協としてもっとも古い歴史を持つ日本生協連会長の賀川が関わった病院だということもあり、日本生協連は厚生年金還元融資を使っての病院の建替えや経営不振・再建への支援など積極的な協力を続けた。そんな関係で院長だった富沢千代子さん(賀川豊彦の長女)にお会いすることなどもあった。
 日本生協連で大変お世話になった元専務理事の勝部欣一さんが入院、亡くなったのがこの病院であり、お見舞いに行った日に勝部さんが亡くなったといった因縁もある。私個人の因縁ではなく、中野組合病院の経営再建問題では1973年の日本生協連総会で再建支援を決定してから全国課題として取り組まれたので、85年に日本生協連が手を引くまでの間に常勤役員として派遣された方も5名を超え、佐久病院などから派遣された医師なども含めこの病院と因縁の深い方は大変多い。日本生協連などの再建支援が同生協の運営問題などで課題を残したままだったこともあってか同生協はその後日本生協連を脱退し、東京都生協連からも数年前に脱退した。今回の賀川像問題もそのことと無縁ではないように考えられるが、ここではそのことにはこれ以上触れない。


因縁話② 桃園川緑道のスケッチ
私の因縁話は趣味の絵との関係である。旧高円寺六丁目生協の理事長だったKさんが絵を趣味とし、その絵を東京都生協連に寄贈したいということで、当時、同連専務だった浅井さんとKさん宅に伺ったことがある。このKさんが地元ということもあり東京医療生協の理事を長らく務めておられ、賀川ファンだった。同生協が日本生協連を脱退して数年たってからだったと思うが、Kさんから「中野組合病院は賀川さんの像を追い出して新渡戸さんと取り換えた。おかしい、何とかならないか」という話があった。私は「新渡戸稲造は創業時の組合長だから非難はできないでしょう」と答え、あとは絵の話になった。
 私がカルチャーセンターのスケッチ仲間と桃園川緑道のスケッチで賀川像に出会ったのは昨2011年の2月だった。桃園川は杉並の天沼からはじまり、北阿佐ヶ谷を通って南下し、中野で東京都生協連の「生協会館」の脇を過ぎて中野総合病院の前を通る。実は、私は病院の裏にあった下宿から学生寮などを経て、阿佐ヶ谷北に住み、そこから結婚して移ったのが天沼で、それぞれ桃園川から近いところだった。スケッチの会は今は暗渠の緑道となっている桃園川を何回かに分けて歩いたので、昔の住いや中野総合病院の近くでもスケッチすることになり、桃園川緑道脇にあった賀川像(写真)にも出会うこととなった。
 その時のスケッチは昨年3月はじめにブログ「かしょうの絵と雑記」に掲載し、賀川像の写真もあわせて載せてコメントも書いた。かって聞いたKさんの話を思い出したが「賀川さんは病院の中よりも多くの人に会えるここの方がいいかもしれない」とも考えた。その像の「組合長 田村一」による碑文には、賀川が相互扶助の愛の精神にもとづき昭和7年に医療生協を設立したこと、昭和40年に新病院を竣工したこと(前記の年金還元融資活用)、創立35年目の創立記念日を迎えてこの像を建てる、と書かれていた。その記念日は5月27日で、自分の結婚記念日だったことにも因縁を感じた。

因縁話③ 絵のブログの因縁
 それから1年たって今年の春にまた花園川緑道をスケッチした。実は生協のOB仲間の絵の会は東京都生協連友の会のサークルとして数年前から生協会館の1室で月1回の例会をもっており、今度はその仲間と一緒のスケッチだった。その絵もブログに掲載した。
 その後しばらくたった6月、私のブログにTさんという方から、中野の桃園川緑道の近くに住んでいること、スケッチを趣味にしていること、賀川と中野総合病院に関心をもっているというコメントが載った。メールアドレスも掲載されていたので、さっそく機会があれば会って趣味の絵のことや賀川のことなど話したいとメールした。しばらくしてTさんから中野総合病院に入院していたということで入院中に病室から描いたスケッチが添付されたメールをもらった。そこには「賀川像は昨年撤去されたそうです。スケッチは像があった桃園川緑道ですが、像はありません。像はどこへ行ったのでしょうか」とあった。

 賀川豊彦像を惜しむ
 このメールを見たあと、月1回の都連の生協会館での絵の会のおりに現地に行ってみると賀川像があった桃園川緑道脇の土地は何か工事がはじまるらしく囲われ、像は無くなっていた。そこで思いついて、都連専務に「病院がもし扱いに困っているようなら、都連が預かって生協会館においたらどうか」と提案した。その後しばらくして都連から「提案を受け止め、病院の責任者に話をしたところ『工事のため撤去し、業者に処分をまかせた』とのことです。残念ながら間に合いませんでした」という返事をいただいた。
 メールをもらった地元のTさんにそのことを知らせると、彼も賀川像のその後を調べており、伴武澄さんのブログのことを教えてくれた。伴さんは09年の「賀川豊彦献身100年」の記念事業に協力していた共同通信の記者で、私も一度会ったことのある人だった。当時、伴さんの主宰するブログ「think kagawa」は、私も賀川および賀川献身100年事業を知るために良く読ませてもらっていた。(現在もインターネットで「thinnk kagawa」をクリックすると伴さんの賀川に関する記事が読めます。)
 その伴さんはすでに昨年12月に賀川像が撤去・廃棄されたことを知り、ブログに「中野総合病院前の胸像はすでに歴史的意味をもつ存在であったはずである。日本が貧しかった時代に貧しい人たちのために病院を設立した先達の偉業を象徴する存在なのである。」として「そんな胸像を安易に葬り去った中野総合病院はもはや地域医療を担う資格はない。」と書いていた。遅ればせながらそのブログを読み、生協人として、また個人的な因縁も多かったのに何もできなかった者として、あらためて無念さを覚えた。賀川さんと消えた(消された)像にお詫びしたい。
 <付記>「久友会だより」NO70(09年12月)に渋谷のコーププラザ1階にある賀川豊彦像の写真とその製作者・小杉三郎さんの紹介記事が載っています。日本生協連のこの新会館建設計画を知り、賀川像を作成してはどうかと乾漆像の権威である小杉さんを紹介されたのは、当時、大阪北生協理事長の柏木尚さんでした。当時、常勤役員としてその話を推進し、現賀川像を実現できたことを改めて良かったと思っています。この像は中野総合病院にあった銅像とちがい乾漆像です。火災などに会わず、末永く多くの人に愛されることを祈っています。

 

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情報提供 原発・原爆に関する情報サイト

「はる3」情報提供。

情報サイトアドレスをご紹介します。
このほど全国各地の生協OB42氏の賛同者にする情報サイトが出来ました。

http://offnuclear.urdr.weblife.me/

この中に地域生協・大学生協関係者に馴染みな方が原稿を寄せられています。
今年スタートしたばかりです。

例えば竹本成徳さんの「わが心の自叙伝」が出てきます
例えば岩佐幹三さんの「母と妹への手紙」 等が が出てきます。など。
竹本成徳さんはヒロシマの被爆体験者です。氏は周知のように日生協の元会長、コープこうべの理事長をつとめました。出身は同志社大学で、同大生協の専務を経験務しました。「平和とより良き生活」を掲げて半世紀に及ぶ生協活動を貫いたものは「身内や学友の多くを原爆で失い地獄を見た」ことによる人間愛・隣人愛があります。現役時代より、機会あるごとに各地を訪ね「愛と協同」を説いてきました。掲載「わが心の自叙伝」は仕事を引かれた後、被爆者としての使命感を持って実践する背景がわかります。「わが心の自叙伝」は珠玉です。未来を志向する方に読んでいく価値があります。
次に全国被団協代表を務める岩佐先生の体験記です。氏は40年近くにわたって  大学生協と地域生協にかかわって学生と主婦に語りつづけた金沢大学生協元理事長で同大の名誉教授です。ひろしまで原爆孤児になった方だそうです。今につづく大学生協のピースナウ毎年開催を1983年の最初から世話になっています。もう一つの氏の文は被団協代表として、きたる国連NPTに向けてへの訴えがあります(昨年5月ウイーンに自ら赴き訴えたものです)。老若男女問わずいずれも私らの琴線を揺がします。ノーモア被爆者。

もしあなたが、みんなに広める価値があると 判断されれば大いに拡散できる情報サイトです。
福岡の南善久さんの被ばく2世としての内省から湧き出る考察は時代を開くメーッセージで、すでに掲載されています。

2月以降どんどん生協にかかわった方のメッセージが出る予定となっているそうです。長崎・福島・宮城・埼玉などから情報は原爆と原発をつなぐでしょう。

これからの寄稿は 気軽に、仲間に語りかけたり、ご自身が大事な方に知らせたい情報紹介など長短を問わず寄せられるよう世話人会は期待しています。
専門的な追及も歓迎されます。知が行動を促します。
学生からの自由な発信もおおいに歓迎されています。若い人の率直な発信ほど励ますものはありませんから。

拡散する方法は
全体なら  http://offnuclear.urdr.weblife.me/
差し当たり1部分だけ・・たとえば岩佐さんの文だけなら岩佐幹三さんのPDF版
8AE28DB28AB28EO81u95EA82C6968582D682CC8EE88E86.pdf
を送ることが出来ます。
■↑この8AE28DE・・・・・・・・pdf  をクリックすると岩佐さんの本文が出ます。   親しい人に拡散する価値があると判断されればこの
 8AE28DE・・・・・・・・pdf をおくり クリックしていただく。その方がさらに拡散したいなら他の友人にも送ることが出来ます。
また始まったばかりです。
世話人  大久保厚  松本進  對馬  高橋晴雄   賛同者42名 各地の生協OB   

原発・原爆情報サイト事務局
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
全国大学生協連 OB 大久保 厚
TEL 03-5307-1122 
FAX 03-5307-1179
携帯:090-2165-5473
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

                           高橋 晴雄
                                  

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 (haru3)

著書名「原発とは結局なんだったのか」-今福島で生きる意味-
       福島大教授 清水修二著  東京新聞  定価1400円+税

推薦する理由 時宜に適したもってこいの著作といってよいと思います。私たち市民の問題点をも指摘し私には目

からうろこでした。原発事故後の対応に身を投じつつ具体的かつ鳥瞰的立場で鋭い問題提起をしています。昨11

月 原発事故被災地調査団長として、ベルラーシ・ウクライナを訪問(福島県連会長熊谷さんも同行)し2012

年3月11日「原発いらない!福島県民大集会」で呼びかけ人代表を務めました。2012-3まで福島大副学長

をつとめています。氏の専門は財政学・地域論です。

若干のコメント

私流で単純化を恐れずに言えば一般に社会の組織は「権威」によって作られています。 原発過酷事故は 初めに

「原発ありき」を権力者が決定して演繹的にシステム化するピラミット型のもたらした権威です。これに対し命・

くらし・環境・そのための経済・継承発展創造・未来を願う人間の視点に立つ側の権威があります。それが組織な

らその構成員が帰納的に練り上げていく民主主義の権威です。生活にかかわる組織の権威です。科学もまたもともと帰納で積み重ね発見創造されてきました。氏は「福島の痛みをわが痛みとすることを」出発点にすることでの時代の転換に希望を見出しています。その科学的根拠を示し福島(日本)で生きる意味を提示し続けています。ぜひ一読をお勧めします。(高橋晴雄)

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「くらしと協同」合併特集号を読んで(続)

 斎藤 嘉璋
生協の合併の是非をめぐる「争論」の2番手に広島大教授の田中秀樹さんが登場します。田中教授の県域生協・生協の規模論や事業連合論は多くの点で私も同意できました。購買の協同である購買生協は「規模の経済」(と運動の統一)を求め県内合併で県域生協となり、さらに事業連合づくりとなったこと、「規模の経済」は業態によって違うということの指摘は正しいと思います。しかし、事業連合問題では納得できない点があります。
事業連合について田中教授は「単協主権で単協の事業のいくつかの機能については基本的に連合で展開しようということですから、商品機能が中心になる」として、店舗運営機能までもつことになると「チェーン本部を事業連合が持つことになり」それは「本来の事業連合ではない」「合併(する方)が合理的になる」と主張されています。
前回の稿の冒頭で大友さんの本「生協の持続的発展を願って」を紹介しましたが、彼はそこで他のスーパーが成功させているコーペラティブチェーンの例などを紹介しながら事業連合における店舗事業のあり方を論じています(それらの所論はこのブログに掲載されています)。田中教授のいう「本来の事業連合」は「単協主権のもとにある」ということだと思いますし、私も最終的な権限と責任を単協が持てないような組織は事業連合ではないと考えます。しかし、事業連合での店舗機能がコーペラティブチェーンでなくレギュラーチェーンに近いものであっても、即「合併」とはならないやり方はあると思います。

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「くらしと協同」合併特集を読んで

斎藤 嘉璋
「くらしと協同」合併問題特集を読んで
くらしと協同の研究所の「くらしと協同」秋号が「生協の合併―是か否か」を特集しました。このブログでは大友弘巳さんが首都圏3生協の合併の是非について何回も投稿し、その主要な主張は「生協の持続的発展を願って」(あけび書房刊)に収録されています。多分、この特集の内容については大友さんが大いに意見があるところと思いますが、彼は今体調を崩しているので、同じようにこのブログに合併問題で見解を書いたことのある私が感想を述べることにします。
このブログの主宰者である大友さんがしばし休むということで私の投稿が続いており、少し気が引けていますがお許し願います。
特集「生協の合併是か否か」は「争論・協同を語る」ということで関西大の杉本貴志教授が司会進行にあたり、まず京都大の若林靖永教授が語っています。
杉本教授は総論で「日本の生協運動は地域に密着した組合員中心の組織と事業をつくりあげてきた」が、それは生協法の県域規制に「やむなく対応した結果でもあった」と述べています。「県域規制や員外規制がなかったら地域に密着した組合員中心の組織と事業を展開できなかった(しなかった)かもしれない」という評は他でも聞くことがありますが、市民生協群の誕生と発展期にその現場で事業と運動に携わったものとして異議があります。「地域に密着した組合員中心の組織と事業」は私たちが望ましいと考えた姿・理念であり、生協の誕生、発展期は区や市を超えることでも激論があったものです。人々のくらしと協同は地域社会にあるもので、協同する人々は多いほどいいー地域での組織密度が高いほどいいという考えです。規模と密度がたかまり県域規制が現実問題となるのは「地域に密着した組合員中心のー」が弱くなったのではといわれる、最近の10数年前からだと思います。

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