コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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大学生協の思い出(その2)

[大友弘巳]
「火災に遭った食堂への復旧支援の連帯活動」
 埼玉大学生協の食堂の火災は1966年1月15日未明のことでした。全焼に近いとはいえ、かろうじて柱や屋根の骨組みは焼け焦げてはいたが残っていたという状態でした。
 原因は泊り込んでいた学生理事が壊れたコタツを使用して寝込んでいたことによるもので、生協の責任であり、批判や非難が寄せられて当然の状況でした。
  埼玉大学生協の役職員は私を初め呆然の状態でしたが、近くの会館に泊り込んで予算編成のための合宿をしていたところでしたので、消火が終わった後ともかくまず片付けようと早朝から作業を始めていました。そこへ、東京地連傘下の大学生協の職員が多数支援に駆けつけてくれ、「学生に迷惑をかけないように営業を再開できるようにしよう」との意思統一の下強力な援軍として作業をリードしてくれたのでした。
 さらに連絡が届いてから駆けつけた、学生理事や、学生委員、成人の日で祭日だったにも関らずサークル活動に出てきていた学生まで応援してくれ、数の力で片付けは見る見るうちに進んでいきました。

 被災の状況を点検にきた大学の施設課長がこうした様子を見て、素早く動きだしてくれ、2日目日曜日のうちに屋根や壁に大テントを張りめぐらせ、テーブルや椅子も調達するなど、仮営業ができるよう応急措置を取ってくれたのでした。
 お陰で営業は1日も休むことなく月曜日から仮営業を開始し、不十分ながらも昼食を提供できるようになりました。登校してきた学生や教職員からは驚きの声とともに、非難よりも感謝や激励の言葉が上がり、見舞いカンパが続々と寄せられることとなりました。
 もたもたしていたら恐らく批判や非難の声が高まり、生協は存立の危機を迎えるところでしたが、幸い危機を脱することができたのは、地連の応援部隊の支援が決定的に大きかったと思われ、その主力は板橋の寮に住んでいた若い職員の皆さんであり、東京同盟体の事業連帯が進んでいたからこその力でありました。
 大学生協の連帯の力の大きさ、大切さを発揮した出来事として伝えられるべきことと思いますし、いまも感謝している次第です。

「埼玉における地域生協作り支援活動」
 埼玉では1966年3月、都内の大学生協の支援によって所沢生協が設立されたことが、地域生協に目を開くきっかけとなりました。
 同年6月、埼玉県生協協議会が結成され、埼玉大学生協がその事務局の役割を担うことになったこともあり、地域生協づくり支援の検討にも参加するようになりました。
 所沢生協と高階生協の合併による埼玉市民生協づくりの方向の議論が両生協間で進んだことを受けて、69年2月埼玉県生協協議会の場で、埼玉における拠点生協づくりの方針として、埼玉市民生協づくりに他の生協も協力することを確認しあった中で、埼玉大学生協としてもこれに全面的に協力することにしました。
 そんなところへ、同年5月、大学紛争が激化し、埼玉大学では北浦和キャンパスがバリケード封鎖され、生協は営業できない状況となりました。
 やむなく教職員家庭への配達による供給を開始すると共に、浦和南主婦会や新日本婦人の会の会員に班を作ってもらい共同購入方式でコープ商品の供給を開始しました。
 これが急速に広がり、事業採算が合うようにできる感触もつかめたので、専任体制をとり、いっそう力を入れることにしました。
 同時に埼玉市民生協づくり支援として、所沢、高階の合併推進支援と、川越へのSM店舗作りのための準備や組合員組織作り支援に取り組むこととし、私も含めて4人が所沢生協へ出向することとしました。
 北浦和キャンパスのバリケード封鎖は、11月に解除されたので、生協の事業は平常に復帰したのですが、地域での共同購入は継続し、埼玉市民生協の県中央部への展開のための準備活動支援と位置づけていました。
 70年2月に川越店は開店できたのですが、競合スーパーの出店もあり、供給は計画を大きく下回って赤字経営となり、埼玉市民生協を全県に広げて展開していくという地域政策は見直さざるを得なくなり、各地に地域に根ざした地域生協作りを支援して進め、生協間の連帯事業を進めていくという第2次地域政策を策定することとなりました。
 こうした状況変化の中で、埼玉大学生協は、浦和を中心に広げてきた共同購入事業を母体に、共同購入事業だけで当分集中的に発展を目指す埼玉中央市民生協設立を支援する方針を立て、共同購入を利用していた地域の主婦たちに論議していただいたところ積極的に支持され、急いで発起人会を立ち上げ、70年12月15日埼玉中央市民生協の創立総会を開催する運びとなりました。
 以後この生協が急速に成長を続け、共同購入による供給事業中心の生協づくりの典型の一つとなったわけですが、大学がバリケード封鎖されたことがその始まりのきっかけであったことは忘れられない思い出となっています。

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