コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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私的生協運動史

「斎藤嘉璋」
50年前の大学生協―長崎、広島へ生協設立オルグ?

<10月20日、東京品川のホテルで大学生協連主催の「大学生協連草創期のOB懇談会」が開催された。庄司会長も出席、当時の専務理事・杉本時哉さんはじめ10人ほどの方が往時の思い出の一端を語ったが、今後、地方ごとに懇談の場をもち、歴史の記録を残す作業をするとのことであった。>


 宮崎での全国理事会
 大学生協連は法人化して「全協」から脱皮したはずだが、私やその仲間の学生にはなにも変わることなく、学生主体の貧乏な運動体の「全協」だった。
 「全協」時代らしい思い出に宮崎で58年11月に開催された全国理事会がある。生協も学生も貧乏時代、当然、東京から宮崎まで夜行鈍行列車を乗り継いで行った。杉本専務も一緒に国鉄宮崎駅に降り立って驚いた。

 「歓迎大学生協全国理事会」の看板があり、降り立った我々に「専務さんや常務さんはこちらへ」と黒塗りのハイヤーに案内されたこと。大人の杉本さんは別にして、ジャンパー姿の私など逃げ出したい気持ちだった。
 どうやら宮崎大生協の宣伝が効きすぎ、県が「大学」と「全国理事会」に惑わされたための歓迎だったようだ。

 一方で、中大生協の学生理事が羽田から福岡へ飛行機で来たことが多くの参加者の反発をかった。中大生協はその後、安保問題などの取り組みに「全協は政治的すぎる」と批判し、大学生協連を脱退することになるが、この折の「中大は経営主義だ」といった批判が影響したかもしれない。
 この理事会の帰り、東京地連のメンバーに北大の河村君などが加わって5人ほどが「どうせ鈍行の旅だから、途中、未組織校の自治会をオルグしながら帰ろう」ということになった。
 泊まるところは長崎と広島、被爆地を見て、大学の学生自治会を訪ね、さらに学寮にタダで泊めてもらおうという“立派な計画”だった。
 鹿児島経由で、初めて長崎、広島の被爆地を訪ねられたのはよかった。当時、原水禁運動は砂川闘争のあとのより大衆的な反戦平和運動であり、生協も取り組みを強めていた。個人的には、70年代末の東協連役員の頃と80年代後半からの日生協役員の頃を含め広島、長崎は毎年のように訪れることになった、その最初だった。
 生協設立オルグは自治会室を訪ね在室している学生にいきなり「生協がないのはおかしい」との説教だった。あまり効果がなかったようで、学寮泊まりも成功しなかった。
 しかし、こんな取り組みがあって55年度40校だった全協加盟生協は58年度50校、60年度58校と増えていった。

全国大会では職員の交流も―労協の結成など
 このころ新設生協の仲間が増えることが何より楽しく、またいろいろな活動も方針論議よりも実態や悩みの交流が主だった。全国大会は方針論議の場ではあったが、新設校をふくめ仲間同士の交流が大きな比重を占めていた。学生役員だけでなく、専従職員の交流も盛んだった。
 57年の比叡山大会の折には参加者の中の労組代表によって全国大学生協労組協議会が結成された。翌年の大会でも専従者の参加は少なくなく、夕食後の学生と専従者一体の交流会では「ミス地連」「ミス全協」選びなどを企画し、早大生協のAさんを当選させて騒いだことなどを思い出す。
 生協の協同連帯はまず人的な面から始まるが、この時期、トップ同士に負けず専従職員が労組の立場で進めたのが注目される。大学生協労協が結成された翌年には日本生協労組協議会準備会がつくられ、60年には日生協の主催する「生協学校」の場で日本生協全国労協(全国生協労協)が結成された。
 たまたま全国生協労協の結成された時は「生協学校」の事務局としてお手伝いをし、そんな縁で日生協では労組の3役を順に務めながら労協の事務方や中央委員も務めた。68年の大学労協と全国労協の合併総会の折には大学労協の栢下さんと一緒に議長を務めたが、その生協労連が今年40周年を迎えた。(このブログで吉永さんが生協労連40周年の話を書き、そこにコメントを書いたが、そこに全国生協労協結成を59年と書いたのは60年の間違いでした。)

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コメント


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 いよいよ60年代に入りましたね
 埼玉大学生協も60年5月に設立総会を開催していますので、大学生協連の60年度の会員生協58のうちの一つになったということですね。
 埼玉大学の場合は、わずか1年間の設立準備活動
で創立総会を開催することができましたし、事業の準備も東大生協の支援を受けてスムーズに進みました。
 今から思うと、大学生協連ができて、共同仕入れなど事業連が進みはじめたことにより、学生だけでなく教職員からの生協への信頼感が高まってきたこと、設立支援活動が積極的に取り組まれていたことなどが、支えになっていたように思います。
 私は教員になることを志望して59年度に入学したのですが、入学早々、各クラス2名の設立準備委員の1人に選ばれ、2年生になった春に創立総会を迎え、学生理事に選ばれ、専務理事まで引き受けてしまったため、生協に深く関ることになりました。
 岩手大学生協や、名古屋大学生協も同じ頃だったと思いますが、それぞれ当時のことを思い出しておられると思います。
 これから、斉藤さんの連載に関連しながら、投稿やコメントを寄せ合っていきたいものと思っています。
 

大友弘巳 | URL | 2008年11月07日(Fri)11:32 [EDIT]


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