コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

生協と戦争、平和ーその歴史」4

斎藤嘉璋
第4回
第1部 戦前戦中の生協 4

(3) 太平洋戦争と敗戦=生協に壊滅的打撃
<徴兵、徴用、疎開、空襲 —>
 太平洋戦争がはじまりフランス領ベトナムからイギリス領マレー、ビルマ、アメリカ保
護領フィリッピン、オランダ領ボルネオなどへ侵攻した日本軍は、翌42年にはミッドウエ
ー海戦で敗北し、本土に初空襲を受けます。以降、アッツ島やサイパンでの「玉砕」など
負け戦が続きますが、大本営の嘘の発表と報道統制のもとで国民は戦争協力にまい進しま
した。
 徴兵された国民は41年200万人が44年500万人をこえ、敗戦時には696万人になりま
す。勤労動員されていた学徒は44年末「学徒出陣」になり、女性も女子挺身勤労令で12
歳~40歳女性に1年間の就労義務が課せられます(就労500万人)。一方、大都市では空
襲の延焼対策として建物疎開がはじまり、学童の農山村地への疎開もすめられます。
 生活必需品の統制強化で取り扱い物資がなくなるなか生協での働き手も徴兵、徴用で失
い、生き残っていた生協も窒息状態になりました。家庭購買は44年に入ると御用聞き供給
を停止しますが、店舗も建物疎開で壊されるといったなかで協同組合学校等の休校をふく
め全面的に事業を一時停止することになりました。
 45年、東京はじめ大阪、神戸などへの空襲が激化し、東京の下町で展開していた江東消費の活動区域は生協施設をふくめすべて焼け野原となり、東京の都心部から山手に展開していた家庭購買も多大な損害を受けます。神戸消費ではあいつぐ空襲で大半の支部と本部の建物や施設を失い、灘購買は空襲で本部等の建物や施設を失った後もバラックで仮事務所を建設しましたが「施設の70%を失い、組合員の80%が戦禍を受けて四散する」状況で敗戦の日を迎えることとなりました。
 44年11月からの全国各都市への空襲とその激化は国のリーダーたちに”敗戦必至”を認識させていったはずですが、45年に入っても軍部と政府は「本土決戦」「一億玉砕」をかかげ、沖縄での島民を犠牲にしての地上戦、ソ連参戦と引き上げや抑留の悲劇、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下と悲惨な犠牲など、さらなる悲劇をうみだしたうえに「ボツダム宣言」を受諾して8月15日終戦となります。
(資料)
・1940年(戦前のピーク時)の日本の生協
   調査組合242組合 組合員数40.3万人、供給高7,452万円、
 1943年の主要生協
   家庭購買     組合員25,530人  供給高564万円
   神戸消費         8,690人     88万円
   灘購買          9,780人     227万円
(つづく)

5、”戦争の時代”と生協
<内外に多大な犠牲>
 日中戦争からのアジア太平洋戦争における人的被害は日本は軍人240万人、民間人80
万人の計320万人、中国はじめ諸外国の犠牲者は2000万から3000万人といわれます。戦争末期の沖縄戦では19万人近い犠牲者のうち12万人が一般人を含む県民であり、広島(20,2万人)と長崎(9,4万人)の原爆犠牲者、東京大空襲(10万人)はじめ各地の空襲犠牲者など、一般国民の犠牲も多大でした。
 私たちの身内や地域の戦争被害とともに、忘れてならないのはそれ以上の犠牲者、被害を出した諸外国のことだと思います。35年間にわたり植民地支配した朝鮮では「八紘一宇」「大東亜共栄圏」のスローガンのもとに日本語の使用、創氏改名の強制から神社の全土での建設、神棚や天皇の真影の設置と拝礼などのほか、戦時には徴用、徴兵などが厳しい条件下で行われました(労働者の強制連行100万人、徴兵21万人)。女子挺身隊として20万人が動員され、うち5~7万人が従軍慰安婦とされたといわれます。
 満州国も日中戦争からの15年間、日本の兵站基地として軍事資源の供給源となり、現地中国人は満人として兵役に動員され、勤労動員には劣悪な条件で使われました。台湾でも朝鮮同様に植民地化政策が進められ、高砂義勇隊など兵役に3.6万人が動員されました。
 日清戦争の始まった1894年からアジア太平洋戦争敗戦の1945年までの51年間、日本は直接、間接の戦争を続けました。1914年の第一次大戦から1945年まで日本が軍隊を海外派遣しなかった年は2年だけだったといわれるように、その戦争は沖縄戦をのぞきすべて海外であり、その多くの犠牲は海外で発生しました。そのため私たちには戦争の実感が少なく、戦争は遠い過去になってきています。しかし、戦場となった現場、虐殺やさまざまの暴力があった現地の人々、犠牲者にとっては戦争はまだ忘れられないはずです。

<戦争の歴史と生協の理念の直視を>
 戦争は人が殺しあう野蛮な行為を国として行う異常な事態なので、それを行おうとするには国民の考えや行動をさまざまな手立てで統制、統一しなければなりません。歴史が教えるように戦争を準備する段階での政治的思想的な統制・縛りから社会的組織的な縛り、経済的な縛りへと、すべてにわたり自由が規制されます。生協は自由と民主主義が規制される戦争下では存在し、発展できないことがはっきりしています。
また、社会的経済的に弱い立場の者の協同扶助の組織として、協同や助け合いの理念を否定し、強者の立場に立つ戦争は理念的に容認できません。賀川豊彦など戦前のリーダーたちはその理念のために弾圧されました。 ”戦争のできる国”への動きが強まるなかで、生協の歴史と理念の直視が求められていると考えます。





第2部 戦後の生協の平和活動(別紙)

スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。