コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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生協と戦争、平和―その歴史 3

第3回
第1部 戦前戦中の生協 3

3、満州事変から日中戦争へ――思想的政治的弾圧
 昭和期に入ると日本は満州事変(1931年)を起こし”15年戦争”の時代となります。
32年上海事件、満州国建国、33年国際連盟脱退と中国華北への侵攻、そして36年2・26
事件と侵略戦争と全体主義=ファシズムへの道を邁進することになります。
 37年、盧溝橋事変から日中戦争となり、南京大虐殺事件など日本は侵略者として国際的
な非難を受けます。この満州事変から日中戦争開戦までの間に、思想的政治的な取締り強
化を目的に制定された治安維持法と警察力によって、当局に反体制的とみなされた団体や
個人とともに関消連や東京学消などの生協は弾圧され、解散させられていきます。

(1 ) 関消連、東京学消への弾圧強化、解散へ
 関消連は毎年、産業組合中央会が取り組まないICA提唱の「国際協同組合デー」に取り
組みましたが、1928年の国際協同組合デーの集会等の行事は治安維持法に基づく警察の判
断で禁止されます。関消連は翌年の国際デーに「帝国主義戦争反対」のスローガンを掲げ
ますが、当時の生協では唯一のことでした。戦争反対をうたっていた共産党なども解散状
態であり、関消連も以降、公に反戦を掲げることはありません。しかし、1932年の「米よ
こせ」闘争で成果を上げ、日消連として組織が拡大すると幹部の拘束など弾圧がいっそう
強まりました。
 日消連は1934年の全国大会で全代議員が警察に検挙、拘束され、37年には、日消連幹部20余名がいっせいに検挙されます。そのような弾圧が続くなか38年、活動の中心であった
関消連は弾圧により、ついに解散させられます。関消連傘下の共働社や城西消費などは家庭購買へ組織統合し、生き残りをはかることになります。
 東京学消も満州事変以降、特高警察の干渉が激化、学生の検挙が続きました。たまたま
ですが、私が早稲田大学生協の専務理事に就任した40年ほど前のことですが、戦前の学消
の学生委員だった当時の自民党の石田博英議員に「警察に世話になったことのない者が
専務とはおかしい。僕たちのころは組合の店にいるだけで警察にひっぱられ、つど賀川組
合長に引き取ってもらったものだ」という話をうかがいました。当時は早稲田では新聞部
も雄弁会も解散させられ、学消だけが学生のあつまる場であり、その店にいるだけで”危
険分子”とみなされたそうです。
 このような弾圧で36年、法政、明治支部事業停止、37年早稲田支部、40年東大赤門支
部が解散しますが、その解散は治安警察法による強制で、産業組合法による解散手続きは
その後にやられました。(つづき参照)

賀川豊彦等への思想的政治的弾圧
 治安維持法による思想的政治的弾圧は関消連などの左翼とみなされた幹部だけでなくクリスチャンの賀川豊彦などにも強まりました。また「協同互助」など協同組合思想を危険思想とみなす動きも強まりました。
 賀川は1928年「全国非戦同盟」を結成(顧問に吉野作造、安倍磯雄など)し、新渡戸稲造(1933年設立の東京医療組合の理事長)とも反戦平和で協力しました。そのため反戦思想容疑で1940年に東京・松沢教会で検挙、拘束、43年には神戸と東京で同容疑で検挙、憲兵隊の取調べを受けました。吉野作造は右翼にねらわれ、家庭購買の本部に「変装して通う」といった状況でした。
 福島消費組合(1935年設立)は定款にうたった「協同互助の精神を普及し経済組織の改
善を図り」の記述が社会主義経済に通じ、「広く人類の福祉を益さんがため…」は反戦運動
に通じる書き直しを命令されました。クリスチャンの組合長・関誠一も43年、反戦容疑で
警察に逮捕され8ヶ月も拘束されました。
 

4、日中戦争から太平洋戦争―戦時統制の強化と生協

(1)<組織統制>―政党も労組も解散、個人の自由はなし。
 日中戦争に入るとすぐ政府は国民精神総動員実施要項を決定、翌38年には国家総動員法
を制定します。国民精神総動員は国体(天皇制)への忠誠、愛国思想の教化、戦争遂行の
ための愛国公債、貯蓄報国、慰問活動、勤労奉仕等への国民の思想と行動を総動員するも
のでした。国家総動員法は労務、物資、賃金、物価、施設などを戦争遂行のために統制、
動員するものでした。国民徴用令、勤労報国協力令(1941年)などで、たとえば、未婚女
性は年間30日の無償勤労などが義務付けられました。
 1939年ドイツがポーランドに侵攻、第2次世界大戦となり、翌40年日独伊同盟が結ば
れます。政府は「八紘一宇―大東亜新秩序」の新体制運動に取り組みますが、それはアジ
アの諸国はひとつの家族であり、その家長は天皇のもとの日本帝国だという考えであり、
その考えは国民だけでなく朝鮮や満州の「国民」にも強制的に押し付けられました。朝鮮
では神道の神社が各地に建てられ、日本名に名前を変える「創氏改名」が強制されました。
 このような思想統制とあわせ企業や労組などの組織統制のため、大日本産業報国会のも
と全国に「産報」組織がつくられました。労組は解散させられ「産報」に統合され、労組
がつくっていた職域生協は00産報購買組合とか産業報国物資部に衣替えさせられました。
例えば、日立造船労組因島購買組合は「因島産報購買組合」になりました。
 国民精神総動員運動のための組織として町内会・隣組の組織がつくられ、隣組は配給機
能から勤労奉仕、慰問活動、防火訓練、相互監視等の単位にされました。さらに全政党が
解散し大政翼賛会に統合され、大政翼賛会の統制のもとに産業報国会、大日本婦人会、大
日本青少年団、農業報国連盟など6団体がはいり、町内会・隣組組織とあわせ国民統制組
織が地域、職域、階層別の国民各層をとおし完成しました。「挙国一致」の軍部中心のフ
ァッショ体制であり、この体制に批判的な個人、団体の存在は許さない状況になっていき
ます。隣組や婦人会の活動に非協力な人は「非国民」と呼ばれました。
 愛国婦人会(150万人)と国防婦人会(900万人)等が統合し、大日本婦人会(2000
万人)になると、自主的な活動をする婦人組織は殆どなくなり、日本消費組合婦人協会が
最大組織で、他には雑誌「婦人の友」の「友の会」やキリスト関係の婦人組織などがわず
かに存在する状況になります。

(2) <経済統制>生協事業の自由喪失
 <日中戦争-組織、事業は拡大したが>
 経済は軍事最優先となり、軍事費の膨張とインフレのもと国民生活は苦しくなりますが、
政府は「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵」のスローガンのもと耐久生活を要
求します。”精動”(国民精神総動員運動)の名のもとで、例えば「冠婚新様式」というパ
ンフレットが配布されますが、そこには結婚式等について式場や料理、お祝いやお返しの
あり方まで「ぜいたくは敵」の精神で細かく書かれていました。
 日中戦争が長引くなかで生活必需品の木炭、米、小麦、砂糖などが順次配給となり、「公
定価格」が決められます。しかし、物資不足から闇と闇価格が横行し、戦争が激化すると
米や砂糖などは30倍もの闇価格がつくまでになります。衣料なども切符制配給となり、一
人ひとりの購入点数が制限されます。
 先に述べたように関消連や東京学消などは解散せられていましたが、戦時下のインフレ
と物資不足が続くなかで、生協への結集は高まりました。さまざまな規制がある中で消費
者、組合員は生活防衛の砦として生協に期待、結集し、1936年から40年の5年間に全国
生協の組合員は1.8倍に増え、供給高は2.3倍になりました。(資料)
 1941年12月8日、日本はハワイを奇襲空爆、マレーやシンガポールに侵攻し太平洋戦
争(大東亜戦争)の開戦となりました。開戦まえに公布されて生活必需物資統制令で食料
品等の配給統制が進められていましたが、主食の米が41年から通帳制なり、流通も米穀配
給統制組合に一元化されました。消費者はお米の数量も配給先も規制され、生協は統制組
合の一員として取引する関係になりました。

 <太平洋戦争―事業の自由も喪失>
 さらに42年には食糧管理法の施行で、米穀の取り扱いは食料営団に統合され、生協では
扱えないので、生協職員営団職員に移籍し扱うといった事態になりました。当時の地域生
協では供給高に占める米穀の比重が30%から多いところでは50%近かったため、多く
が事業停止やさらに解散に追い込まれていきました。
 家庭購買は共働社、城西消費などと合併し、41年には16支部、9事業部、組合員2.2万
人、供給高660万円の戦前の生協の最大規模になりました。生協店舗を日用品の地区登録
配給所に指定されるよう努力しますが、生協本来の事業は困難になっていきます。組合員
活動も日比谷野音での”団欒の夕べ”も42年に中止、“銃後の役割”として愛国貯蓄の促進
や、軍の慰問活動などへと変化していきます。
 神戸消費や灘購買でも生活必需品の配給制に対応するため、組合員の加入率を高め地域
の配給所の資格をとるための取り組みなどさまざまな努力をしました。しかし、神戸消費
は50%の比重をしめていた米穀の取り扱いができなくなると「生協らしい事業活動も事
業も不可能」になりました。灘購買も米穀では同様でしたが、生協店舗が食品や日常雑貨
品の配給所の指定をうけたり、町内会から青果物の配給を任されたりと事業は限定的です
が続けられました。家庭会での活動も戦地への慰問品の発送や軍病院への慰問など軍事色
を強めていきました。
 日本消費組合婦人協会の取り組みも、創立時の“世界の平和”から“東亜の平和”へス
ローガンも変化していきました。国際的にも日中戦争と南京虐殺事件を契機にイギリスの
生協の婦人ギルドが日本商品ボイコットをきめますが、同協会の総会にそのことに抗議す
る決議が提案される状況になりました。ICAも同様に日本の戦争に批判的であり、産業組
合中央会はICから脱退します。関消連が協同組合の国際連帯をうたって国際協同組合デー
行事に取り組んでいたころとは大きく変化し、日本の生協も長引く戦争の中で国際的に孤
立した存になっていきました。(つづく)

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