コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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生協と戦争、平和―その歴史(1)

斎藤嘉璋
第1回

生協と戦争、平和―その歴史
<平和とよりよい生活のために>


<はじめにー歴史に学ぼう>

 戦後70年にあたり安倍首相の「首相談話」は韓国、中国をはじめ世界の国々の注目を集め、その後久しぶりに開かれた日中韓首脳会議の共同声明でも冒頭に「歴史を直視し」とうたわれました。安倍首相の「談話」は「歴史を直視」したものとは考えられないものでしたが、一方で私たち自身も戦争の歴史について振り返り、教訓を学ぶ必要があると考えました。いま歴史認識で問題になっているのは特に中国や韓国などとの関係なので、日清・日露戦争の明治期から、生協の歴史でいえば日本に最初の生協が誕生したころから振り返ってみたいと思います。
 私は初代会長の賀川豊彦が亡くなった年に日本生協連に入職しましたが、当時の木下保雄専務理事(戦前、家庭購買組合で働き、戦中は全国消費組合協会に勤務)に「日本の生協の歴史は誕生以来、戦争に強く影響され、翻弄された歴史だった」と聞かされました。その後、日本の生協運動史の編纂などにかかわり、そのことがわかり、賀川さんや中林貞男会長が「平和希求こそ生協の理念」と強調していたことが理解できました。
 日本に最初の生協が誕生したのは1879(明治12)年です。明治期には日清戦争、日露戦争があり、その影響を受けながら地域、職域の生協だけでなく共済、医療など各種生協が誕生しました。一方で労働組合と一体だった労働者生協は解散させられました。大正期には第1次大戦後の恐慌や労働運動の高揚などと大正デモクラシーといわれる潮流のなかで、コープこうべなど現在につながる市民生協や労働者生協が誕生しました。
 生協と戦争の歴史を考える場合、もっとも大きな影響があったのは、満州事変(1931年)から始まる15年戦争で、そのもとで生協の諸活動への政治的締め付けが強まり、労働者生協や学生生協などが解散に追い込まれ、太平洋戦争(1941年~)に入ると市民生協群も組織・事業のすべての面で戦時体制の締め付けを受け、最後には空襲等の直接的な被害もあり、壊滅状況になります。
 第1部「戦前・戦中の生協運動」では、簡単に日本の生協の創成期、明治期にもふれて太平洋戦争まで(戦前)と太平洋戦争期(戦中)の戦争と生協の歴史の特徴について述べます。 第2部「生協の平和活動の歴史」では、その戦前・戦中の教訓から「平和とより良い生活のために」を基本理念にして発展してきた生協の平和活動の特徴を述べます。
 生協はなぜ戦争に反対し、反核・平和の活動に取り組むのか?この歴史に学ぶことで理解がふかまることを期待いたします。
第1部 戦前・戦中の生協運動

第1部  戦前戦中の生協

1、 日本の生協の創生期
日本に初めての生協、東京の共立商社や大阪の共立商店が設立されたのは西南戦争の直後の1879年です。”文明開化”がうたわれ鹿鳴館などが造られるより数年前にイギリスのロッチデール組合に学んでの設立であり、政府が産業組合法を制定するのはそれより20年も後でした。共立商社などを設立した人たちには福沢諭吉門下生や自由民権運動家、ジャーナリストなど封建的な身分社会と専制的な藩閥政治のなかで近代的、開明的な考えをもつ人たちでした。しかし、天皇への「大政奉還」で始まった明治政府は欧米の先進文明の導入にあたり立憲主義や協同組合思想などを優先させるのではなく、絶対主義的な君主制と帝国主義的な膨張主義をとり、“殖産興業”、“富国強兵”を国策としました。欧米列強に負けない国力造りと対外膨張をすすめる政策をとったのです。

<日清戦争-労働者生協の誕生と解散>
 その最初が日清戦争(1894年)でした。朝鮮半島での中国・清政権の支配権を奪い、台湾や遼東半島の権益を握りました。他国を軍事力で支配する「侵略」でした。その遼東半島や中国東北部(満州)での権益をめぐり、1904年には日露戦争を起します。
 安倍「首相談話」は「日露戦争は植民地支配のもとにあった多くのアジアやアフリカの人々を勇気付けました」と、何か正義の戦いに勝って中国や朝鮮の人々を守ったかのように述べています。しかし、ロシアの大陸南進を阻止し、日本の中国や朝鮮での軍事支配の強化に成功したというのが日露戦争であり、安倍首相の見解は日本の一部の歴史修正主義者といわれる人たちの見解で「歴史を直視」しないものです。日露戦争にあたり、のちに城西消費組合の家庭会会長になる詩人与謝野晶子は「君死にたまふことなかれ」の反戦歌を発表し、国民の共感をよびました
 日清戦争後の物価高騰のなかで労働組合期成会の指導のもと鉄道や軍事工場、造船所などに労働者生協「共働店」が作られ、東京、横浜から北海道、東北各地に広がりました。初めての労働者生協でした。一方で、戦争のもとで農村、農民の困窮がひろがり、政府は農民の救済のための協同組合創りを進めました。1900年、産業組合法が制定され、この法律で生協は市街地購買組合として位置づけられます。しかし、同年、労働組合や農民の運動を規制するため治安警察法が制定され、労働組合とともに「共働店」も解散させられていきました。治安警察法は政治結社だけでなく労働組合などのストや集会などを強く規制するもので、生協にとっては産業組合法はアメで治安警察法はひどいムチでした。

<日露戦争―広がった生協>
 産業組合法の施行と日露戦争による物価高騰といったなかで、軍人や官吏、銀行員といった富裕層を中心に生協作りが進み、その盛況ぶりが当時の漫画本で紹介されています(漫画参照)。この漫画には小売商が生協の発展を大変脅威に感じたようすが書かれています。地域生協は東京の18組合はじめ全国に44組合設立され、鉱山や工場、大学などや共済、医療など各分野に生協が広がりました。このころ設立された職域の生協には戦後まで存続、するものがありましたが、福利厚生施設として生協であり、労働者の自主的組織としての生協の発展は大正期になります。
 日露戦争に勝利した政府は1910年、韓国を併合=植民地化し、朝鮮の人々はその後35年間にわたり日本の圧政下におかれます。日清、日露戦争は侵略戦争でした。

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