コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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私的生協運動史

「斎藤嘉璋」
50年前の大学生協ー「全協」時代の先輩と仲間

第12回大会と嶋田先生第12回大会で挨拶される嶋田会長。

大学生協連の25年史「大学生協の歩み」は1956年~60年を「運動課題3つの柱を確立してー基本路線推進の時代」としており、そのまえの冊子「15年のあゆみ」は「大学生協の歴史においてもっとも充実した時期」とうたっている。学生の私にとっても「もっとも充実した時期」であった。
大学生協連が法人化した58年度の役員名簿をみると、会長の嶋田啓一郎(同志社大)、副会長の平田富太郎(早大)、近藤英男(学徒援護会)の諸先生、専務理事の杉本さん、常務理事の情報宣伝担当の山田、東京地連担当の斎藤に続き、北大河村征治、東北大小室満男、岐阜大安江隆夫、同志社大増田誓冶、宮崎大中野義之の名前がある。それぞれ各地連代表であり、なつかしい名前である。学生常務理事以外では東北大の相馬健二君(大学生協連、全労済)、専従者では事業委員長の島根さん(東大駒場)と石田静雄さん(鹿児島大)の名前がある。

全協時代の仲間58年の全協常務理事。右から小室、安江、山田、河村、斎藤。

 嶋田先生のことでは戦前に若い教え子を同志社から東京の江東消費の賀川のもとに送り込んだことなど、のちに東協連でその歴史の編纂に関わって知った。2002年に京都のご自宅に伺い、その頃のことや大学生協連の頃のお話を改めて聞き「生協運動・想い出集」に収録できたことがうれしかった。
 平田先生には10年後に早大生協の専務になって改めてご指導いただいたが、先生が日本社会事業大学の学長になったとき「斎藤君、日社大には生協がないよ」と注意され、急きょ生協設立支援を展開し、生協設立をしたのが最大の思い出である。ちょうど同大学が原宿から清瀬に移った時であり、先生の尽力で今も同大学の生協は立派な施設をもっている。早大生協では法人化して理事長は京口元吉先生から野村平爾先生に変わったが、野村先生も平田先生も本当に生協を愛され、適切な指導をくだされた。
 島根さんは58年暮れに創立された全国事業生協連に転出するので、この時期は短いお付き合いだったが、65年にその事業連と日生協が合併すると島根さんの指揮下に入って仕事をすることになる。よく安酒もともにいただいた。ただ一人の男性職員だった高木さんとは、69年に日生協での私の担当商品分野を引き継いでいただくという縁があり、今もお二人とは住居も近く、お付き合いしていただいている。
 石田さんは専従専務になったばかりだったと思うが、専従専務が全国理事になるのは翌59年塚崎宏(東大)、60年森定進(早大)であり、石田さんが専従専務の全国理事としては嚆矢ではないかと思うが手元に確認できる資料がない。後で述べる宮崎理事会いらい大学生協で、地域生協で、そして今回の共同ブログを含め長くお世話になっている。
 河村君には学生時代の個人的な北海道旅行で、札幌で世話になった。このとき北大生協では専務の野崎さんや大学村担当の真鍋さんにも初めて会ったが、河村君は木造校舎に掲げた「新聞代値上げ反対」の横断幕を生協の取り組みとして自慢した。長い付き合いだが、コープさっぽろでの失敗のあと会えないでいる。
 小室さんには仙台で開かれた全国常務理事会で世話になり、夜遅く市電通りを千鳥足で歩いたことを覚えている。小室さんは東北大に残り専務理事になるが、短期で内館晟君に交替した。京都の増田さん、宮崎の中野君には日生協勤務になってまた再会したが、生協に残らなかった学生理事にはほとんど会っていない。ただ、監事だった田中熙巳さん(理科大)には塚崎宏さんの葬儀・偲ぶ会で会い被団協の事務局長として活躍されていることを知った。まえに紹介した神戸の鈴木さんとは最近逢っているという。
 早大生協からは学生専務の町田哲夫君が全国理事で入っていたが、早稲田の仲間のことはまたあとで書かせてもらう。

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