コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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大学生協の発展と地域生協設立支援活動(続き)

斎藤 嘉璋
5月20日掲載のオウエン協会研究集会での報告「大学生協の発展と地域生協支援活動」の続きです。
当初、3回に分けて掲載予定でしたが、ここに後半すべてを掲載しました。

大学生協の発展と地域生協設立支援活動(続き)

2、大学生協による地域生協新設・再建支援の経過

1)50年代から60年代の取り組み
 ①50年代の初期的取り組み
  大学生協が組織的に地域生協の設立などの支援活動に取り組むようになるのは60年代からですが、その前から大学生協の経験者が生協の連合会や地域生協に転出するといった事例はかなりありました。
 東大生協の創立メンバーである勝部欣一さん(日本生協連副会長)は49年に日協同盟に就職し、少しおくれて同じ東大生協からは福田繁さん(日本生協連専務理事)や坪井俊二さん、大谷正夫さんが、早大生協からは岡本好広さんや谷川宏さん(4人は日本生協連常務理事)が50年代に日本生協連に入っています。地域生協へは早大生協の創立メンバーで「全協の再建者」であった森定進さん(日本生協連副会長)が54年に武蔵野生協に入っており、同じころ川崎生協にも学生理事経験者が入っています。
関西では同志社大学生協から横関武さん(京都生協理事長、日本生協連副会長)が57年に神戸生協へ、つづいて竹本成徳さん(コープこうべ組合長、日本生協連会長)や友貞安太郎さん(日本生協連常務理事)が神戸生協に入っています。
 大学生協が地域生協づくりに着手した最初は、53年の東大生協による氷川下生協でした。当時の東大生協は経営的に苦しいなか「混迷からの脱却」、「真の生協運動のあり方」をめざし、横浜生協などの見学や戦前からのリーダーとの懇談などを重ね、地域に運動を広げることにしました。利用者のいない「夏休み対策」がもう一つの動機でした。経営的に厳しいなかで反対論もあり、派遣されることになった中山久枝さん(塚崎宏専務夫人)は「東大生協を退職する。半年は給与を持つ」条件でした。徳永直の「太陽のない街」で知られる氷川下での活動は苦戦が続きますが56年に生協設立となり、62年文京勤労者生協と改称、
78年には戸山ハイツ生協とともに都民生協と合併、その歴史はコープとうきょう(現コープみらい)に引き継がれました。
 60年代最初の事例としては61年設立の東京労信販生協への大学生協からの幹部人事派遣があります。この生協設立は東京都生協連が参加する東京労福協が進めたもので主体は東京地評でしたが、東大生協出身の桐原良彰さん(都民生協理事長)が常勤常務となり法政大と早大の生協から幹部職員が派遣され、東北大を卒業してすぐの浅井康男さん(東京都生協連会長)も入りました。しかし、この生協は桐原さんなどの期待した地域化はせず労組主体の信販事業にこだわったため、大学生協からのメンバーは数年で撤退しました。

2)市民生協づくり(新設)の支援活動
①洛北、札幌、所沢の3生協発足
 大学生協の支援による本格的な地域生協づくりは64年の洛北生協、65年の札幌市民生協、所沢生協の3生協から始まりました。(以下、太字体は都道府県の拠点的な生協となった生協)。洛北生協は同志社大生協の特販部家庭係の業務から始まりますが、戦前の消費組合のリーダーの影響や横関さんなどの神戸生協での経験も背景にありました。札幌市民生協の設立も北大生協の「大学村」での実践が背景にありました。59年に北大生協を訪問した私は教職員の居住する大学村で真鍋康弘さん(札幌市民生協初代専務)が頑張っている姿を見ていますが、そのころから地域化の構想があったのではと思います。
所沢生協は勤労者のための住宅として勤住協が建設した団地に設立されたもので、当初からその企画に関わった日本生協連に大学生協が協力して発足しました。中心になった日本生協連の藤川一栄さんは東大生協出身であり、東京地連の各生協から幹部職員が派遣されました。これらの動きは地連として取り組んだ東京をはじめ全国の各地連で報告・論議され、大学生協の地域生協づくりへの関心が高まりました。大学生協連は65年度方針に「地域生協づくりを支持・援助する」とうたい、67年度以降の総会議案書ではさらに積極的な取り組みと支援のあり方・留意点などを述べており、そのことが各地の取り組みを促進しました。

②広がる地域生協づくり支援
60年代後半から70年代は物価高が続き、有害食品や環境問題などが社会問題化する情勢が続き団地など新興住宅地で主婦を中心に牛乳の共同購入のうごきなどが広がりました。
そのような情勢と前記3生協の設立などを受け、日本生協連は首都圏大生協構想(東京生協の設立)を掲げ、その準備を進めます。その準備事務局に日本生協連は東京地連代表の塚崎さんを招へいし、その後任に早大生協の森定さんがなることになり、さらにその後任に日本生協連から私が就任することになりました。59年3月のことですが、私の専務としての最初の仕事は職員への働きかけであり、5人の職員を東京生協に派遣しました。東京生協は地域の消費者・組合員の組織づくりよりも店舗づくりを先行させた “落下傘方式“で、事実上日本生協連の直営といった運営だったため経営的にも行き詰まります。日本生協連は70年の総会で総括(福島総会結語)しますが、東京地連の各生協から派遣された多くの職員は引き上げることになり、早大生協ではその経験を戸山ハイツ生協再建支援に生かすことになります。
東京生協が設立された69年、盛岡市民生協(岩手大生協)、宮城県民生協(東北大生協)、名古屋勤労者生協(名古屋大生協)、長崎滑石生協(長崎大生協)が設立されます。北海道では札幌市民生協と大学生協が協力し岩見沢市民(68年)、小樽市民(69年)、函館市民(70年)の各生協が設立されます。
70年代は各地で消費者運動が盛り上がり婦人団体や団地自治会などによる生協づくりが広がり、大学生協の設立支援活動も活発化します。大学生協の支援による新設生協は以下の通りです。
(表1)
60年代 東京労信販 京都洛北、札幌市民、所沢、岩見沢、小樽、東京、盛岡市民
宮城県民、名古屋勤労者、長崎滑石



70年 函館市民、前橋市民、埼玉中央、タマ消費、泉北(大阪)
71年 水戸市民、埼玉南部、練馬、北多摩市民、相模原、佐賀市民、鹿児島市民, ふくおか東部
 72年 埼玉北部、三多摩市民、東京南部、浜松勤労市民、清水、洛南、北九州市民、
 73年 山梨中央市民、高島平団地(東京)、船橋市民、岐阜地区市民、宮崎市民
 74年 宇都宮市民、東葛市民、東三河、大阪いずみ市民、奈良市民、むなかた、宮崎県南部市民
 75年 青森市民、松本市民、大阪かわち市民、福岡市民、
 76年 帯広市民、弘前市民、茨城県南、群馬北部県民、群馬西部市民、沖縄南部市民
 77年 足利市民(栃木)、久留米市民
 78年 北上市民(岩手)


80年代  わかやま市民、みえきた市民、とくしま、こうち、にいがた、都市生活

  80年代になると新設生協の数は減少し、80年わかやま市民、81年みえきた市民、84年とくしま、85年こうち、86年市民生協にいがた、都市生活(兵庫)の各生協が大学生協や大学生協が支援する先輩地域生協の協力で設立されます。
(表1)には生協の設立後にトップなどの人事支援があったが、例えば74年のえひめ生協などは「設立」支援と言えないかもしれないので載せていませんし、滋賀の大津生協は洛北生協が支援していますが、大学生協のかかわりを調べられなかったので載せていません。それらは(表2)の「+α」に含まれます。
また、70年代に大学生協連から暴力問題で除名された九州の大学生協も地域生協づくりを支援しています(九州大生協など7単協が76年除名、90年和解・復帰)。福岡県では九大生協などが71年のふくおか東部生協に続き、同西部、同南部、同北部の各生協の他北九州、筑豊、田川など各地に新生協づくりを進めました。熊本、佐賀、大分、宮崎、長崎にも設立され、それらの生協の多くはグリーンコープグループを形成します。それら生協については大学生協の関わり方(機関決定など組織的取り組みの内容)が不明のため、前記の表には入れず、下記の表では「+α」としています。
 この時期に全国で新設された地域生協の状況は次の通りで、大学生協が支援した新設生協は+αを入れると70を超すと考えられます。都道府県数では約30都道府県になります。
 (表2)
年代 新設生協数 内大学生協支援
60年~69年 43組合 11組合
70年~79年 138組合 45組合+α
80年~90年 39組合 6組合+α
計 220組合 62組合+α

3)既存生協の再建支援など
①既存生協の再建支援
 東京では1968年、東京都生協連が桐ヶ丘団地、戸山ハイツ、労働者クラブの各生協の再建支援を大学生協に要請しました。まず、法政大生協が桐ヶ丘団地生協の支援を開始し、69年には大学生協から派遣された新体制のもと新店開店、団地の枠を超えての発展を準備しました。戸山ハイツ生協は早大生協が担当し70年に専務理事等を派遣し、71年に団地外に新店を出店しました。両生協は戦後まもない混乱期に都営住宅に設立された生協で、その再建は団地の枠を超えての新生協づくりをめざすものでした。この2生協は文勤生協とともに78年に合併、その後、三多摩市民生協、東京生協などと合併をかさねコープとうきょう(現、コープみらい)となります。
 千葉でも古い歴史をもつ登戸生協を大学生協が再建支援、73年ちば市民生協となり、同じく大学生協が設立支援した船橋市民や東葛市民生協と合併、ちばコープとして発展します。群馬では桐生中央生協の再建を群大生協が支援し76年群馬県民生協となりますが、同年、群大生協支援で北部県民、西部市民の両生協が設立され、その後、3生協は慶応大生協から専務が派遣されていた前橋市民生協とともに合併し、コープぐんまとなりました。
 大阪では戦後すぐに設立され一時休業状態だった千里山生協が66年に牛乳の共同購入で活動を再開、それを関西大生協が支援し、関西での共同購入生協の最初となりました。

②新設・再建以外の大学生協の地域生協支援
 60年代以降の日本の地域生協の本格的な発展のために大学生協がおこなった支援活動としてはトップを含む人材派遣があります。例えば、コープかながわは横浜生協が75年に5単協合併し拠点生協として発展しますが、その前後から慶応大、東大、早大などの生協からの幹部人材を集め、その発展に生かしています。トップ等が大学生協出身者である例はおかやまコープなどかなりの数あり、そのような事例まで含めると大学生協が何らかの貢献をしている地域生協は過半を超えると思われます。
 以上に述べた大学生協の支援で新設、再建あるいは強化され、現在その都道府県で中心的な役割を担っている地域生協は約35都道府県に存在すると思われます。

3、大学生協が果たした役割

1)日本の生協運動の本格的発展への貢献
①生協の全国的な組織化、布陣
 60年代後半から70年代に全国津々浦々に生協がつくられ、70年79万人だった組合員は80年292万人となり、90年916万人と飛躍的に増加しました。その新しい地域生協の担い手は主婦層を中心とする消費者・組合員であり、組織作りには地域の婦人・消費者団体や自治会など市民団体あるいは労働組合などが関わったところが多かったです。しかし、既存の地域生協の力が衰退していたなかで大学生協が商品や人材などをもって、それらの動きを支援、現実化した功績は大きなものでした。
②組合員主体の運営と活発な活動の実践
 大学生協の活動は「地域生協の主体は地域の主婦組合員(われわれの活動は支援)」の立場を守り、かって労働組合が地域勤労者生協づくりで行った間違いを犯しませんでした。日本生協連が東京生協の失敗から強調した「組合員に依拠」の考えではなく「組合員自身の運営」の原則を実践したのです。新しい市民生協群の「出資・利用・運営参加」三位一体の実践は主体となった主婦組合員の大きなエネルギーを引き出し、80年代の急速な拡大・発展となりました。
 組合員参加は商品など生協の事業分野から消費者として「命と暮らし」「平和」を守るなど社会的諸課題に積極的に取り組むこととして発展しました。消費者運動の最大の担い手となり、環境、福祉など様々な課題に取り組む市民運動の担い手にもなっていきます。
③各地で拠点的役割をはたし、全国の運動をリード
 大学生協の支援・連帯のもとで育った生協は生協間連帯を重視し、県内合併などをすすめ各地で拠点的役割をになうことになっていきます。その力は都道府県連や日本生協連の連帯活動に生かされ、県域を超える事業連合づくりなども進みます。

4、大学生協の果たした役割の背景と要因

 ①大学生協の協同・連帯、人事交流等の伝統
 大学生協には「全協」時代から学生活動家に単協の枠を超えての協同・連帯の強い意識がありましたが、専従幹部にもそのような連帯意識がつよく、新設生協や弱小単協への人事派遣などが当たり前のように行われていました。戦後間もなくから連合会や地域生協などに幹部が転出していました。
 さらに60年前後から大学での生協づくりや安保闘争など学生運動に関わった学生が生協運動に関心を深め、生協に残る、就職する人が増え、そのような人材が地域生協に転出することになります。日本の生協運動発展に情熱を持った人材が増えていたということです。
② 大学生協連の方針と支援
 地域生協支援が全国的に取り組まれたこと、それが前述のような成果をあげた背景には大学生協連のこの間の方針とそれの論議、理解がありました。大学生協連は67年度方針の「日本の生協運動を民主的に発展させよう」から毎年、年度方針で地域生協支援にふれ、必要な反省や留意点にもふれた文書も発表しています。69年度方針の「①地域生協の主体は地域住民自身、②消費者の自主的・民主的組織としての成長、③消費者運動の発展展望のなかでの位置づけ、社会的責務、④統一戦線の発展・強化に貢献」が基本的な視点をうたったものと言えます。
 大学生協連は70年代には、一部大学生協の「反体制生協論に基づく地域進出」論や「学内で行き詰まったから学外へ」論の間違いや札幌市民や洛北、東京などの生協の直面した困難に関する見解なども出しています。当時は既存地域生協や日本生協連が全国的に広がる生協づくりやその発展に適切な指導、支援を行える状況になく、地域生協支援に取り組んでいる大学生協関係者は大学生協の各地連ごとに集まり、交流や学習をし、また励ましあっていました。私の経験でも役立ったのはそのような場であり、大学生協連と生活問題研究所などの場が貴重でした。店舗の出店や運営問題やその後に課題になる班運営や共同購入問題なども新しい市民生協群のなかで交流、あり方を探り、その後の発展をかちとったと言えます。
③若干の問題点―引き続き検証作業を
 私は戸山ハイツ生協が都民生協などと合併し、東京での中核的な存在になったあと東京都生協連の常務理事となり、数多く誕生した生協の連帯、合併などの課題に取り組みました。全国的にもあったようですが、大学生協が支援した市民生協群の勢いが強かったこととリーダーたちの未熟さから既存生協と軋轢が生じたり、大半が誤解に基づくものでしたが「党派的に偏っている」などと批判されたりもしました。九州や関西では大学生協運動内の対立関係が地域生協支援に反映したため、地域生協間に軋轢が生じるといったことも起きました。そのため80年~90年代は県内連帯をどうすすめるかが全国的に大きな課題でした。大学生協が支援した市民生協群が各県、地方で拠点的な役割を担い、日本の生協運動を本格的に発展させますが、その拠点生協主義への批判も一部に発生します。
東京・首都圏でみると大学生協が関わった地域生協が、同じ流れの生協と連帯し事業連合・コープネットをつくり、そのグループにパルシステムと生活クラブ連合が県域を超える連帯で対峙するといった構造になっています。参考文献に下山保さんの「異端派生協の逆襲」を挙げておきましたが、彼と視点はずれますが今後の連帯のあり方として考えるべきことも多いと思っています。
組合員を主人公とする原則的な運営や社会的発言と諸運動の展開など、市民生協群の特徴とされたことはどういう条件のなかでどう変化してきたのか?など総括すべきことは多いと思いますが、それは日本の生協運動全体の問題だとも思います。引き続き検証し、総括していく作業が今後の日本の生協運動のためにさらに必要と考えています。(以上)

参考文献=日本生協連発行「現代日本生協運動史」、「同資料集」の第3巻、大学生協連発行「大学生協の歴史と未来」、下山保「異端派生協の逆襲」(同時代社)など。
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