コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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大学生協の発展と地域生協設立支援活動

斎藤 嘉璋
この原稿はロバアト・オウエン協会の公開研究会(3月28日)「創生期の大学生協運動とその展開」での斎藤の報告です。同公開研究会では「1950年代、60年代の政治動向と社会状況」(岩垂弘氏)、「当時の学生生活と大学生協の役割」(岡本好廣氏)の両報告に続いて報告し、あわせて参加者による質疑、討議がありました。
この報告の時間が30分しかなく不十分だったこととこのテーマに関心がありながら参加できなかった人から内容を知りたいという声もあるのでここに掲載することにしました。この共同ブログ「コラボ・コープOB」のメンバーは大学生協から地域生協づくりに関わった人達なので、私のこの報告をたたき台に当時の歴史を検証し、自らの経験や想いを寄せていただければいいなという期待もあります。
報告は「1、1960年前後の大学生協、2、大学生協による地域生協新設・再建支援の経過、3、大学生協が果たした役割、4、大学生協の果たした役割の背景と要因」の4節ですが、3回にわけて掲載します。
60年代からの大学生協の地域生協支援の活動は日本の生協運動の本格的な発展に大きく貢献しており、その成果や問題点は今「総括」すべき時点にあると思います。これを読まれた皆さんからこの報告に関し、事実誤認のご指摘をはじめご意見ご感想をいただければ幸いです。「コメント」やメールでのご意見をお待ちします。


大学生協の発展と地域生協設立支援活動

1、1960年前後の大学生協
全国大学生協連が創立15周年を記念して発刊した「大学生協15年のあゆみ」は1957年の比叡山大会以降の数年間を「もっとも充実した時期」と書いていますが、私が学生理事として早大生協と大学生協連に関わったのはそのような時期でした。
「全協」あるいは「全学協」とよばれていた大学生協連の第10回大会(比叡山)では、教育環境整備運動・消費者運動・平和と民主主義の3本の柱を大学生協の基本路線としてかかげ、学生自治会などの取り組む学生運動との違いをはっきりさせました。教環運動の主なテーマは貧困な厚生施設の充実を求めることであり生協が運営する食堂等の施設の獲得・拡充闘争として展開され、消費者運動としては新聞代値上げ反対闘争などこれまで学生運動にはない取り組みがされました。平和・民主主義闘争では勤評、警職法から安保改定反対が取り組まれましたが、これらは自治会などとも共同しましたが、徐々に生協の独自性を強めていきました。
1958年には「全協」は法人化し「全国大学生協連」になり、早大生協なども法人化しますし、それまでの学生専務制から専従専務制への移行が進みます。これまで早大生協では総代会でトップ当選した学生理事が専務になる慣習でしたが、法人化を決めた59年度総代会でトップ当選した私は専従枠選出の森定進さんに専務理事をお願いしました。
この時期の大学生協の特徴は次のように言えます。
① 大学生協の学内外での地位の確立
3つの柱の取り組みで「生協らしさ」を確立し、専従体制を確立し事業経営の強化・安定をはかり、法人化などを契機に教職員をふくむ全学組織になっていったことなどから大学当局はじめ関係諸方面からの評価を得て、社会的な地位を確立していきました。

① 新設生協の増加
 「全協」の常務理事であった私の主な活動は未組織校対策で東京学芸大、お茶の水大、明治学院大、東経大などで新設、明治大で再建が進みました。創立時には250校もの参加があった「全協」の加盟校は1950年には20校まで減少し、「全協が再建された」55年で40余校でしたが、この時期から全国的に主要大学での生協づくりが進み、加盟校は60年58校、61年64校、62年74校、65年には91校と増えていきました。
② 運動路線の確立
3つの柱による大学生協の運動路線が確立し、消費者運動などへの取り組みは日本生協連に結集する地域生協や地域の諸団体との協同・連帯が進みました。一方、安保闘争では大学生協連は総評や社共両党の参加する国民会議に結集し、その路線と対立する全学連とその傘下自治会とは矛盾も発生しました。大学生協内でもその対立は70年の九州地連総会での暴力問題の発生と大学生協連からの除名問題などとなり、そのことはその後の地域生協づくりなどにも影響しました。
③ 連帯活動の前進
「全協」時代の57年に全国事業委員会が発足し、翌年には大学生協独自商品として大学ノートを発売します。日本生協連は59年に全国事業連を設立しますが、それには幹部人事派遣を含め、この大学生協の経験が生かされます。紙を別漉きしての大学ノートの開発は全国事業連による60年のCO-OP商品第1号(バター)の開発につながったと考えます。
この時期、各地連では拠点生協が中心になって未組織校に対し生協づくりが働きかけられ、生協がつくられるとトップや業務担当の幹部職員が派遣されました。全国事業委員会を構成した全国の拠点生協はその共同仕入れの力で中小単協を支援し、新設生協には商品とあわせ人材も支援しました。単協の枠を超えた損得無視の連帯は“血盟的連帯”といわれ、さらにのちの事業連合づくりに結びつく“同盟化”論議に発展します。
④ 地域生協づくり支援の取り組み
前述のような連帯活動の思想と実践の前進は大学生協が大学の枠をこえて地域生協づくりへの支援を強化することに結びつきます。
私自身の経験でいうと消費者運動ということで59年の小売商業特別措置法反対の“2・26国会前座り込み”に参加、日本生協連や地域生協の幹部と雪のなかのテントで交流し、さらに同年の新聞代闘争で都内の地域生協の幹部とご一緒したことなどから地域生協に関心が向くことになりました。同様に安保闘争などをふくめ、この時期の大学生協の活動の広がりはそれに携わった大学生協の関係者に大学生協の枠を超えての活動を動機付けることになったと考えます。私も日本生協連に内定しましたが、当時の日本生協連は貧乏団体でして「6月総会で予算が決定されるまで待て」といわれ、留年して安保闘争がおわった7月に入職しました。
 

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