コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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もう一つの賀川豊彦像

00-賀川像正面 019 (2)
斎藤 嘉璋
<このブログは都合で休みが続き申し訳ありません。新しいメンバーを加え出直す
ことも検討していますので、しばしお許しください。なお、この記事は「久友会だより」
なるものに載せたものですが、ブログで公開せよとのご意見もあり掲載します。>

消えたもう一つの賀川豊彦像
                       写真と文  斎藤 嘉璋

 渋谷のコーププラザの玄関フロアには賀川豊彦像がある。他にもあるのではないかと思うが、私が知っていたもう一つの賀川像、東京医療生協の中野総合病院の前の桃園川緑道脇にあったその胸像が姿を消した。残念ながら銅のかたまりに還元されてしまったようである。
 すでにこの件は一部に知られているようであるが、昨年、たまたま撮った写真と一緒に私の因縁話として記録しておきたい。

因縁話① はじめての生協、賀川豊彦
 半世紀も前の話。私が高校を出て上京し転がり込んだ兄たちの下宿は中野区橋場町の「中野組合病院」(まだ「総合病院」ではなかった)のすぐ裏手にあった。風邪をひいてそこを訪ね、初めて「生協」というものを知った。病院には創業者であった賀川豊彦のことなども掲示されており(像はまだなかった)、賀川が小説家ではなく生協なるものに関係があるようだとおぼろげな認識もした。
 その後、1960年に日本生協連に入り、最初の仕事がその春に亡くなった賀川豊彦の雑誌「生協運動」での追悼記事の編集だった。認識不足のまま、ハル夫人の思い出話などを記事にする手伝いをした。中野組合病院は医療生協としてもっとも古い歴史を持つ日本生協連会長の賀川が関わった病院だということもあり、日本生協連は厚生年金還元融資を使っての病院の建替えや経営不振・再建への支援など積極的な協力を続けた。そんな関係で院長だった富沢千代子さん(賀川豊彦の長女)にお会いすることなどもあった。
 日本生協連で大変お世話になった元専務理事の勝部欣一さんが入院、亡くなったのがこの病院であり、お見舞いに行った日に勝部さんが亡くなったといった因縁もある。私個人の因縁ではなく、中野組合病院の経営再建問題では1973年の日本生協連総会で再建支援を決定してから全国課題として取り組まれたので、85年に日本生協連が手を引くまでの間に常勤役員として派遣された方も5名を超え、佐久病院などから派遣された医師なども含めこの病院と因縁の深い方は大変多い。日本生協連などの再建支援が同生協の運営問題などで課題を残したままだったこともあってか同生協はその後日本生協連を脱退し、東京都生協連からも数年前に脱退した。今回の賀川像問題もそのことと無縁ではないように考えられるが、ここではそのことにはこれ以上触れない。


因縁話② 桃園川緑道のスケッチ
私の因縁話は趣味の絵との関係である。旧高円寺六丁目生協の理事長だったKさんが絵を趣味とし、その絵を東京都生協連に寄贈したいということで、当時、同連専務だった浅井さんとKさん宅に伺ったことがある。このKさんが地元ということもあり東京医療生協の理事を長らく務めておられ、賀川ファンだった。同生協が日本生協連を脱退して数年たってからだったと思うが、Kさんから「中野組合病院は賀川さんの像を追い出して新渡戸さんと取り換えた。おかしい、何とかならないか」という話があった。私は「新渡戸稲造は創業時の組合長だから非難はできないでしょう」と答え、あとは絵の話になった。
 私がカルチャーセンターのスケッチ仲間と桃園川緑道のスケッチで賀川像に出会ったのは昨2011年の2月だった。桃園川は杉並の天沼からはじまり、北阿佐ヶ谷を通って南下し、中野で東京都生協連の「生協会館」の脇を過ぎて中野総合病院の前を通る。実は、私は病院の裏にあった下宿から学生寮などを経て、阿佐ヶ谷北に住み、そこから結婚して移ったのが天沼で、それぞれ桃園川から近いところだった。スケッチの会は今は暗渠の緑道となっている桃園川を何回かに分けて歩いたので、昔の住いや中野総合病院の近くでもスケッチすることになり、桃園川緑道脇にあった賀川像(写真)にも出会うこととなった。
 その時のスケッチは昨年3月はじめにブログ「かしょうの絵と雑記」に掲載し、賀川像の写真もあわせて載せてコメントも書いた。かって聞いたKさんの話を思い出したが「賀川さんは病院の中よりも多くの人に会えるここの方がいいかもしれない」とも考えた。その像の「組合長 田村一」による碑文には、賀川が相互扶助の愛の精神にもとづき昭和7年に医療生協を設立したこと、昭和40年に新病院を竣工したこと(前記の年金還元融資活用)、創立35年目の創立記念日を迎えてこの像を建てる、と書かれていた。その記念日は5月27日で、自分の結婚記念日だったことにも因縁を感じた。

因縁話③ 絵のブログの因縁
 それから1年たって今年の春にまた花園川緑道をスケッチした。実は生協のOB仲間の絵の会は東京都生協連友の会のサークルとして数年前から生協会館の1室で月1回の例会をもっており、今度はその仲間と一緒のスケッチだった。その絵もブログに掲載した。
 その後しばらくたった6月、私のブログにTさんという方から、中野の桃園川緑道の近くに住んでいること、スケッチを趣味にしていること、賀川と中野総合病院に関心をもっているというコメントが載った。メールアドレスも掲載されていたので、さっそく機会があれば会って趣味の絵のことや賀川のことなど話したいとメールした。しばらくしてTさんから中野総合病院に入院していたということで入院中に病室から描いたスケッチが添付されたメールをもらった。そこには「賀川像は昨年撤去されたそうです。スケッチは像があった桃園川緑道ですが、像はありません。像はどこへ行ったのでしょうか」とあった。

 賀川豊彦像を惜しむ
 このメールを見たあと、月1回の都連の生協会館での絵の会のおりに現地に行ってみると賀川像があった桃園川緑道脇の土地は何か工事がはじまるらしく囲われ、像は無くなっていた。そこで思いついて、都連専務に「病院がもし扱いに困っているようなら、都連が預かって生協会館においたらどうか」と提案した。その後しばらくして都連から「提案を受け止め、病院の責任者に話をしたところ『工事のため撤去し、業者に処分をまかせた』とのことです。残念ながら間に合いませんでした」という返事をいただいた。
 メールをもらった地元のTさんにそのことを知らせると、彼も賀川像のその後を調べており、伴武澄さんのブログのことを教えてくれた。伴さんは09年の「賀川豊彦献身100年」の記念事業に協力していた共同通信の記者で、私も一度会ったことのある人だった。当時、伴さんの主宰するブログ「think kagawa」は、私も賀川および賀川献身100年事業を知るために良く読ませてもらっていた。(現在もインターネットで「thinnk kagawa」をクリックすると伴さんの賀川に関する記事が読めます。)
 その伴さんはすでに昨年12月に賀川像が撤去・廃棄されたことを知り、ブログに「中野総合病院前の胸像はすでに歴史的意味をもつ存在であったはずである。日本が貧しかった時代に貧しい人たちのために病院を設立した先達の偉業を象徴する存在なのである。」として「そんな胸像を安易に葬り去った中野総合病院はもはや地域医療を担う資格はない。」と書いていた。遅ればせながらそのブログを読み、生協人として、また個人的な因縁も多かったのに何もできなかった者として、あらためて無念さを覚えた。賀川さんと消えた(消された)像にお詫びしたい。
 <付記>「久友会だより」NO70(09年12月)に渋谷のコーププラザ1階にある賀川豊彦像の写真とその製作者・小杉三郎さんの紹介記事が載っています。日本生協連のこの新会館建設計画を知り、賀川像を作成してはどうかと乾漆像の権威である小杉さんを紹介されたのは、当時、大阪北生協理事長の柏木尚さんでした。当時、常勤役員としてその話を推進し、現賀川像を実現できたことを改めて良かったと思っています。この像は中野総合病院にあった銅像とちがい乾漆像です。火災などに会わず、末永く多くの人に愛されることを祈っています。

 
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賀川富美子さんではなく、冨沢千代子さんが正しいようです

賀川豊彦のご長女のお名前は、賀川富美子さんではなく、冨沢千代子さんです。結婚後の姓と名前がごっちゃになって記憶されているのではないでしょうか。
松沢資料館の副館長の杉浦さんにお聞きしたことがありますし、兵庫県連の「賀川豊彦献身100年記念事業 記念式典」の記事で確認できました。
http://www.coop-hyogo-union.or.jp/dayori/vol464-2010-1/kenshin.html
中野組合病院=東京医療生協の50年史と70年史は、日本生協連の資料室にもあるとのことです。それぞれの時代や社会の中で人間がいろいろな取り組みをしたことが歴史になるのですから、残念なことも含めて歴史を勉強して、これからに活かせればいいなぁと思っています。

『現代生協運動小史』の愛読者 | URL | 2013年04月30日(Tue)17:43 [EDIT]


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