コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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私的生協運動史

 「斎藤嘉璋」

50年前の大学生協4-早大生協の近代化
早大生協ニュース57年早大生協ニュース57年6月号。法人化問題の記事と賀川豊彦日生協会長の挨拶(要クリック)

 50年前、大学生協連が法人化した当時、法人格をもつ大学生協は東大、中大、法政、北大、東北大、京大、神戸大など少数であった。当時、人格なき社団への課税が問題になっており、一方、独禁法では生協は再販価格維持契約適用除外であったが、未法人ではそれにも問題があった。
 後者では、大学生協では書籍の再販契約にからむ荷止めなどが問題になっており、とくに早大生協では教材の取引が制約されるなど問題が深刻だった。早大では早くから法人化問題に取り組んだが、すでに教職員生協が存在したことなどから難航した。東京都は両者の合併を指導し、59年6月、大学の総長は合併を前提に総代会や理事会の構成などについて「覚書き」を提出した。

 早大生協は総長覚書きを基本的に了解し、6月総代会を法人化総会として開催、法人化した。それは社会的な存在としての法的位置の確立だけにとどまらず、大学および教職員との関係でも取引先との関係でも画期的なできごとだった。
学生共済会いらいの運営を“近代化”するには、もう一つ専従専務制の導入が課題だった。それまでの早大生協では総代会で選出された学生理事のなかから専務理事や常務理事が選出されたが、実態は当選上位者が優先してそれらの職務についていた。
 たまたま、この総代会の理事選挙では私がトップ当選したので、私は専従者枠で当選した森定さんを専務にすべきと提案、早大でも専従専務制が導入された。前記の総長「覚書」でも専務の専従化が検討課題とされていたが、年間事業高が1億を超え、赤字も常態化しているなかで学生専務制は限界にきていた。森定さんは51年の早大生協設立で中心的な役割をにない、54年に卒業とともに武蔵野生協に就職、57年に経営困難に陥った早大生協に復帰、財務担当の理事であった。
 早大生協は組織や運営の面だけでなく、施設がきわめて劣悪でその事業も前近代的だった。58年当時、生協の売り場面積は購買、書籍、食品、文化サービスなどあわせ33,5坪で当時の文学部の地下にあった。例えば伊東四朗(本名伊藤輝)が勤務していた牛乳とコッペパンを売る食品部は8坪で1日3500人の利用があった。サービス部ではタバコのバラ売り(新生5本100円)を買う学生で混んでいた。
 食堂は政経学部地下の自治会から借用している18,5坪。58年にはこの食堂が立ち退きをせまられ、全学的な運動の成果で地上に30坪弱の食堂を獲得した。組合員は25000人で、とても満足できる成果ではなかったが“不法占拠”の地下施設から地上に独立施設をもち、それなりに“前進”だと思った。
 地下の自治会室にプロパンガスと大釜を持ち込んでの前近代的な食堂の主任は東大生協から来られた稲川和夫さんだった。8坪の書籍部にいたのは伊藤次栄さんで、間もなくそれぞれ法政生協と農大生協に行かれるが、のちにお二人はならコープの創設と確立に貢献された。山岸健次さん(書籍部、のち大学生協連)も東大生協出身だったが、その弟・啓介さんとは10年後、地域生協支援で一緒に苦労をしていただくことになった。
 早大出身者では前回ふれた片野さん(商学部)が経理の責任者であり、小林敏男さん(政経学部)は総務担当理事だった。岡本恵さん(文学部)は組織部主任(のち大学生協連)でおこがましくも学生の私が常務理事で上司?だった。
 学生の役員は「俺達が運営している」と考えていたが、実はこれらの幹部と多くの職員が運営主体だった。

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