コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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私的生協運動史

「斎藤嘉璋」
50年前の大学生協ー3   盛んだった生協設立運動

 
対談ー設立運動新聞「大学生協」58年11月号紙上の設立運動に関する山田誠と斎藤の対談。ー要クリック

田中報告 「学協運動」誌、59年6月号,お茶大生協設立支援報告ー田中尚四


 大学生協連が第10回大会で消費者運動や教環運動などを柱に学生運動一般とはちがう路線を打ち出したことは、生協の学生活動家に自信をもたせ「すべての大学に生協を」と生協設立支援活動を盛んにさせる一因となった。
 58年、59年に使っていた私の小さな手帳には「全協」とあわせ明治大、お茶の水大、明治学院、東京学芸大などの名前がたびたび書かれている。東京経済大、女子美術大、芝浦工業大などとあわせ、これらの大学に58~59年度に生協が設立された。
 東京地連担当として関わったいくつかの思い出を述べてみたい。その一つは皮肉なことに最近、悲劇的な形で姿を消した明大生協である。1958年、明大学生会が中心に準備活動をすすめ大学当局や教職員の理解もあり、設立運動は順調に進んだ。学園祭には私も早大生協の職員とともに生協牛乳の宣伝供給などを手伝った。


明大生協には専務理事として東大生協から藤川一栄さんが派遣され、その事業は順調に拡大した。しかし、その後学生運動の分裂と暴力化は生協運営にも影響し、4,5年後には藤川さんと一緒に各生協から派遣された職員は明大生協から引き揚げることとなった。その折に藤川さんから「私の明大生協への派遣契約は東京地連代表の斎藤君の名義になっている」と言われてあわてたものである。

 明大生協よりちょっと前に設立された明治学院大生協にはやはり東大生協から上条直保さんが派遣されたが、上条さんには「学生の理事会への参加がよわい」としかられ、たまたま明学に在学中の弟とその仲間に協力してもらったことがある。その時のメンバーの丹伊田君は専務として残り、木下君はコープこうべに就職した。

 お茶大生協の設立に関しては、すでに「協組」があった大山寮を訪ね、理事の学生たちと大学全体の生協づくりを相談した。門限になって裏の垣根の隙間からうまく送り出され、妙に感心したことを覚えている。お茶大生協には設立支援を担当した東大生協の推薦で、お茶大出身で東大大学院生だった田中喜美代さんが専従幹部として派遣された。半年後に杉本さんが退任すると言いだし、田中さんの夫・尚四さんに大学生協連専務への就任をお願いに行くことになるとは、このときは思ってもいなかった。

 このころの思い出の第一は生協の先輩たちにいろいろお世話になったことにある。新設校だけでなく、早大生協の稲川和夫さんや山岸健次さん、法政大生協の桐原良彰さん、全国事業委員会委員長から全国事業生協連に行かれる島根善太郎さんなどが東大生協から派遣されていた。それらの先輩には亡くなられた桐原さんを別として今日もお世話になっている。

 藤川さんとは日生協でご一緒し、お互いに地域生協を卒業してからもゴルフなどでお付き合いいただいている。先週、ゴルフでご一緒したが「来年80歳だが、83歳前後にエイジシューターになることが夢だったがーー」などとお元気だ。

上条さんには飯田生協再建に尽力されたころにお世話になったが、最近、弟さん・日出男さんの葬儀でお会いした。島根さん、稲川さんは今年80歳で、上条さんは越えたのではないかと思います。

 早大生協の先輩では森定さんと一緒に学生共済会から生協設立に関わり、私とは日生協でもご一諸した片野行雄さんが今年80歳。片野さんは昨年「古代日本―ヤマト三王朝の歴史と真実」(光陽出版,840㌻)という大著を出版した。片野さんとも最近お会いしたが、ますますお元気だった。50年前の早大生協の先輩となるとお世話になった方は多いが、80歳以下の方は次の機会に触れさせていただく。

 生協設立支援の思い出が先輩たちの話になったが、そのような先輩がいたおかげで、この時期から60年代初めにかけて全国的に大学生協が設立され、その後の地域生協をふくめた生協運動発展の基礎ができたのだと考える。

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