コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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7月21日、斎藤嘉さんの発言「三度の被爆への悔恨」への共感、生協運動への期待

[田辺準也]

 3,11から半年、事故後、もう容易にはありえない、と思っていた原発の再稼動,いつの間にか浮上し、あたかも当たり前の動きのようになってきました。
 浜岡原発運転中止に見るように、曲りなりにも脱原発依存の方向の見えた菅内閣でしたが、9月2日発足した野田内閣は早々に再稼動を宣言しています。
 他方で、次々と明らかにされる深刻な被害の数々、事故処理現場の過酷な状況、しかも、国民の70%から80%が脱原発依存への賛意を示し、脱原発運動も広がり、マスコミの論調にも変化がある中でのこの動き、このギャップ、どう考えればよいのでしょうか。
 これまで同様、命に関わる政策が国民の意志とは無関係に、一方的に強行されてしまうのではないか、不安が募ります。
 マスコミなどでは情報、意見が飛び交っていますが、国民の意思が反映されたものといえるかどうか極めて疑問です。
 実際、国民の声を反映する機会は殆んどありません。一部に、国民投票を、との声もあると聞きますが、この子々孫々の生活まで左右しかねない重大な問題に、国民が意志を示すことが出来ない、示さない、本当にこれでいいのでしょうか。

 表記の斉藤さんの発言を、私は、そんな問いかけだと理解し共感しました。
 原発再稼動への動きが進む中、今、改めてその意味を考えています。
 斉藤さんは、原発事故について、「長い間、『安全神話』に身をゆだねてきた愚かさに気付いた」、と、率直に反省の弁を述べています。〔4月17日、大友さんも同趣旨の反省を述べておられます〕
 この発言に、私は最初,若干の違和感を覚えました。これはいわば被害を受ける側からの反省の弁です。今日、原発推進者の無責任さこそ、徹底的に糾弾されなければならない時、何故被害を受ける側の反省か、加害者の責任を曖昧にする、との批判もありうるのではないか、など等です。悪名高き〔自己責任論〕だと批判されるかもしれない、とも思いました。
 然し、他方で、決してそうでは無い、言われるとおりだ、今こそ、この反省が必要だ、との思いも強く受けました。原発の是非は、エネルギー政策としての是非と同時に、命の問題であることが最大の特徴だと思います。
 とすれば、この問題で、そんなに危険だとは知らなかった、結果、命を失った、などということでは洒落にもなりません。
 安全神話に騙されてきた結果、事故が起き、命が危険に曝された事実は、否応なく、私たち一人ひとりに態度を鮮明にすることを迫っていると思います。    
 過去の反省はその出発点だと思います。 
 騙されたことを知った者は、二度と騙されないためにどうするか考えなければなりません。
 私の住む名古屋は、世界一危険といわれてきた浜岡原発のごく近くであり、その危険性はつとに知らされ、反対する会にもかかわり、署名などをした覚えもあります。斉藤さん同様、私も平和運動、生協運動に参加し、核の危険は十分理解していたつもりでした。それでも安全神話の嘘を見抜けませんでした。
 何故見抜けなかったか、やっぱり、被爆と言う事実を、自分のものとして捉えることが出来なく、どこか他人事だったのだと思います。
 福島原発事故は、それが幻想だと言うことを明らかにしました。

 然し、今こうして私がその反省を深めたとしても、果たしてこの声は活かされるのか、極めて不安です。一人だけの無力を痛感します。同時に、その思いが募れば募るほど、生協運動への期待が高まります。
 斉藤さんの発言にも同じ思いがあるのではないか、と受け止めました。
 斉藤さんは、「消費者の立場からのエネルギー。電力のあり方に発言権を持つ生協でも、結果として原発依存の現状を容認してきたと言える」「日生協連の幹部であり、、、反原発の動きなどの動きなども知っていた者として、その危険性への認識、、、の弱さは問題だった」「斉藤さんの悔恨は?と問われている感じがした」、等と書かれています。
 私はこの言葉から、悔恨の気持ちを受け止めると同時に、生協運動の底力、これまでの実績、今後への強い期待も感じ取りました。
 今年6月の日生協連総会では、全国の生協で、エネルギー政策、原発問題の論議をすすめることになったとのことです。大いに期待したいと思います。
 今、生協運動でエネルギー政策、とりわけ原発の是非を論議することには特別の意味があると思うからです。
 第一に、話し合いの輪の広がりです。
 国民の多数が参加する生協運動で、この議論を展開することは、国民の総意を形成する上で、極めて大きな役割を果たすと思います。
 国民的議論がなかなかすすまない現状には、難しい課題であると共に、国民の声を反映する適切な場がない、ことがあります。議論の難しさは、生協運動とて同様だと思いますが、とにもかくにも議論をする場があることは最大の強み、生協運動ならではの役わりだと思います。
 第二に、生協運動ならではの合意の形成です。かつて、平和を守るテーマも、平和運動を進めるということになると、消費者、組合員の中ではある種タブーがあった時期があります。戦争の是非については、様々な背景があり異見がありました。  
 然し、生協運動は、論議を重ね、平和は命の問題と言う理解で大同団結を作りだしてきました。これは原発問題でも基本的に当てはまることだと思います。エネルギー政策一般ではなく、命を守る課題としての議論を期待したいと思います。
 更に、安全な食の選択に際しては、疑わしいものはとりあえず排除する、としてきた生協運動の姿勢も大きな意味を持つと思います。
 かつて、1970年代、食品添加物、農薬の除去についても、そんな詳しい専門知識があったからではなく、現実に重大な食品被害に対して先ずそれを扱わない、と言うことが当時の消費者運動、生協運動であったことを思い起こします。福島原発事故は、あれこれの難しい背景はともかく、命、食、将来の病気、などの不安が現実であることを明らかにしています。
 既に起こってしまった被害〔農作物等〕については、専門的な科学的な検証、対策が不可欠ですが、そもそも原発の是非については、それが疑わしければ、とりあえず排除すると言う姿勢が大事では無いでしょうか。
 この点では、ともすれば、現実の生活、経済がある、理屈どおりにはゆかない、等の意見が必ず生まれます。然し、悲劇的な事故という現実は明らかなのですから、先ずその事実を踏まえた判断が必要だと思います。
第三に、エネルギー政策を暮らしのあり方から検討することです。
 過日、大友さんから、脱原発、持続可能エネルギー活用への転換のための議論を、と言う呼びかけがありました。
 1973年の石油危機では、資源、エネルギーの枯渇を心配し、人間らしい暮らし、本当に豊かな暮らし、を正面から追求しました。その経験を発展させることが望まれます。
 このことについては、大友さんから、デンマークの事情についての情報がありましたが、目を開かされたような気がしました。もっと詳しく知りたい、とりわけ、デンマークの人々の日常の暮らしの有り様について、日本との違いなど知りたいと思いました。
 エネルギー問題は、既に多くの人が指摘しているように、これまで同様の高度成長と両立できるのか、デンマークでは、多分、自然エネルギーとマッチした独特の生活様式があるのではないか、と思うのですが、どうなのか興味が湧きます。
 更に過日、震災直後、大奮闘の最中、加藤善正さんから、震災後の新たな復興に向けての論議が呼びかけられました。
 加藤さんの呼びかけは、これまでと同様な高度経済成長の焼き直しのような復興、再建ではなく、地域とそこに暮らす人びとの本当の願い、思いを掘り起こすものでありたい、と言う趣旨だったと思います。
 その後、加藤さんから、〔住田型木造建設住宅の先見性〕という、報告がありました。震災復興のあり方に対する貴重な問題提起というだけでなく、生協運動として、新しい暮らしの創造を考える上の大切な示唆を与えてくれているように思いました。
 デンマークの話と機械的に連動させるのは適当かどうか分かりませんが、多分、デンマークの暮らしと加藤さんの提案する新しい暮らし、どこかに共通するものがあるのではないか、と思います。

 あれこれ思い付きを書き並べました。こんな意見何かの役に立つのか、やっぱり一人だけでは何の力にもならない、まして現場からずっと離れての発言、どれほど現実性があるか、心もとない感じです。
 然し、原発問題は国民の誰にとっても切実なテーマです。一人の力は小さくてもみんなで力を合わせれば何とかなる、素朴ですが、そんな生協運動の原点を思い返しつつ、なによりも原発の是非は、決して将来の課題ではない、喫緊の課題だという思いから、斉藤さんの発言に共感し、私も一言発言させていただきました。

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