コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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生協労連40周年

[吉永紀明]
 過日9月12日(金)に千葉県内のホテルで生協労連40周年の記念レセプションがあった。そのレセプションの前に「中央役員OBの集い」が開かれて、歴代の中央執行役員約50人が参加した。
 労協の谷川さん、2代目委員長の笠原さん、2代目書記長の鈴木さん、3代目委員長の南向さん、中執の上田さん、後藤さん、山下さんなど懐かしい顔と久しぶりに再会した。また、本部事務局員の吉田千代子さんも出席していた。
 生協労連は1968年に結成されたが、私は1971年に日本生協連労組の委員長をしていて、その時の第4期の生協労連の中央執行委員だった。
 当時私は事業部の総務係長をしていて、前任の渡辺金次委員長から引き継ぐときに、上司から「吉永君、仕事と兼務で両立できるのか?」と注意された。
 「両方ともしっかりと取り組みます」と答えたが、1971年前後は、日生協の供給高が初めて100億円を突破したり、管理価格打破を目指した「CO-OPカラー20サンセブン」の発売で記者会見をしたり世間にCOーOP商品が注目を集め始めていた。また、商品検査室の開設準備などのために各地の検査センターを調査するなど大変忙しい時代だった。
 しかし、上司と約束した手前、仕事の手を抜くことは出来なかった。

 特に春闘や秋闘期間中は自分で「日報」を作って全国の分解に発送する一方で、毎朝生協会館の前で出勤してくる職員にそれを配布するなど頑張った。
 当時日生協は中林さんが副会長で、井川さんが専務理事、勝部さんが常務理事だった。
 労務担当の勝部さんと交渉して、最後の最後にラチがあかないと、労組は中林副会長との直接交渉を要求した。中林副会長が出席すると、妥結金が「500円上がる」という相場になっていたからだ。 私と同期の第4期の中央執行役員には東大生協労組の山下さん(現日生協会長)、大阪労組生協の名嘉さんなどがいた。
 生協労連も、さっぽろやこうべの脱退などで、一時組織人員も停滞したが、パート労働者の加入などで、8万人を目標とする組織拡大が現実となるところまで強められてきた。
 日生協が忘れかけている「平和とよりよき生活のために」のスローガンが懐かしかった。

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生協労連のこと

生協労連の40周年。なぜ私は呼ばれなかったのか?と思いながら読みました。大学生協労協ができたのが、今私がブログに投稿している1957年の全協比叡山大会の折。59年には日生協の生協学校の場で全国生協労協が結成され、事務局は実質的に日生協労組。谷川事務局長のもとで私は事務局。60年代は中央委員もやり、二つの生協労協が生協労連になる68年の合併総会は私と大学生協労協の東大生協の栢下さん。
しかし、翌年、早大生協の専務になり労協で仲間であった労組幹部からは「裏切られては困る」と言われた。日生協役員として労連の「生協学校」で講師で呼ばれたときも、鈴木書記長から同じことを皆の前でいわれた。それも昔話。
今も50年前の労協の諸資料が我が家にある。吉永さんのブログで思い出したので、鈴木君にでもその処理を相談しようと考えた。

斎藤嘉璋 | URL | 2008年10月01日(Wed)21:04 [EDIT]


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