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生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ

[吉永紀明]
 66年目を迎えるヒロシマ・ナガサキを目の前にして「核兵器廃絶」を訴えてきた人たちから、新たな声が上がっている。
 91年から99年まで広島市長を勤めた平岡 敬さんは次のように述べている(11年8月2日山陽新聞「識者論評」)
 『今まで核兵器を目の敵にして、廃絶を主張してきた。・・・・しかし、東京電力福島第1原発事故が起き「原子力の平和利用」とされてきた原発が技術的に制御不可能であることが露呈した。もはや「核兵器対人間」ではなく「放射能対人間」という視点で核の問題を見つめざるを得なくなった。・・・・広島も平和活動家も「NPT(核拡散防止条約)を守ろう」と訴え続けてきた。しかし、核保有国に核軍縮を求めたNPT第6条の裏には「原子力の平和利用」を「奪えない権利」と規定した第4条の問題がある。大惨事をもたらした今回の事故を転換点に、今後は第4条に内在する権利を否定していかなくてはならない。そのことはNPTを否定することにつながる

 元来、NPTは核保有5か国の特権を守る性格が強く、核保有国は必ずしも軍縮義務を遵守してこなかった。議論は分かれるところだが、「平和利用」を否定し「核なき世界」を実現するには、核兵器禁止条約を成立させる必要がある。放射能には平和利用も軍事利用もない。そして放射能をコントロールする技術を人類はまだ取得できていない。・・・・しかし「3・11」を経験した現在「やはり原子力発電を容認すべきではなかった」と自己批判せざるを得ない。フクシマを機に「放射能対人間」の視点で核問題を見つめなおす必要がある。次の世代に
”負債”を残すことはできない』
 
 さらにジャーナリストの高瀬 毅さんも次のように発言している(11年8月3日山陽新聞「識者評論」)
 『・・・・福島第1原発の事故は、被ばくをリアルに体感させる時代を呼び寄せた「あの日」を境に違う世界に生きなければならないことを感じないわけにはいかない。広島・長崎は被曝から66年の原爆の日を迎える。
・・・・事故を踏まえて、新たなメッセージが加わることになる。だが、私はある苦い感情を持って受け止めている。ヒロシマ・ナガサキの教訓が生かされず、フクシマという新たな「被ばく体験」を歴史に刻んでしまったからだ。もちろんフクシマは原発事故によるもので、原爆によって破壊されたヒロシマ・ナガサキとは原因は違う。しかし、放射能物質が拡散し、被ばくの脅威にさらされるという点で両者は本質的に同じだ。原爆も原発も原料はウランという核物質だ。原発の使用済み燃料から取り出すプルトニュウムは核兵器に転用される。・・・・にもかかわらず、戦後、原発と核兵器を結びつけた大きな議論は喚起されず、原発は必要という意識づくりがなされてきた。「原子力の平和利用」という美名のもとに、私たちは豊かな生活を享受し、いつしか核兵器と原発は「別物」ということを刷り込まれ、自らを納得させてきたのではないか。・・・・だが、フクシマを経験したいま、フクシマを抜きにした反核のメッセージは、今日的な視野を欠いたものにならざるを得ない。その意味で、広島・長崎が今年、原発事故を踏まえた宣言を発するのは本来至極当然のことだ。問題はフクシマの意味を核兵器との関連において捉え直し、ヒロシマ・ナガサキをより説得力のあるものにできるか否かだ。フクシマが問いかけるのは、原子力の平和利用も、究極的には人間の存在を根底から脅かす核問題だということだ。とすれば、ヒロシマ・ナガサキがアピールすべきことは、「核兵器廃絶」にとどまらず、「原発も含むすべての核の廃絶」という確固たるメッセージではないか。・・・・原子力の平和利用を受け入れながらの反核などありうるのか。被曝体験の継承のあり方と反核の原点とは何かが突きつけられている』

 私は、1978年の「SSDⅠ(第1回国連軍縮特別総会)に被爆者や生協の仲間、核兵器廃絶を訴える多くの組織の仲間500名とともに、ニューヨークに渡った。
 さらに、2005年には「NPT(核不拡散条約)再検討会議」に生協代表団の団長として参加した。
 いづれも、核保有5カ国が行う核実験の中止や使える核の開発の阻止、核兵器の削減など、緊急の課題の解決を前進させることが中心だった。
 核保有の5カ国にそれらの課題について、前向きな発言や行動をさせることが必要で、各国への要請行動もそのことに主眼が置かれていた。一方で、核兵器は持たないが「核の平和利用」ということで「原子力発電所」を持つことは、原発が核兵器製造につながる恐れを認識しながらも容認する雰囲気だった。北朝鮮のウランの再濃縮問題も「原子力の平和利用」という隠れ蓑が問題になっている。
 かって、日本も各国から原発が増加されるたびに「日本も大量のプルトニュウムを持って、核兵器を開発するのではないか」と疑いの目で見られていたこともあった。
 しかし、高瀬さんの言われるように「原発」は「核兵器」とは別物ということで「環境にやさしい」という美辞麗句でその恩恵を受けてきた。
 ロシアのチェリノブイリ、アメリカのスリーマイル島の原発事故を受けても「日本の原発は大丈夫」の安全神話に乗っかってきた。
 それが「3,11」を境に「原発」と言う存在から「放射能」という人間が制御しきれない問題になってきた。
 今の対応で本当に福島第1原発は収束するのだろうか。もっと広範囲の人たちの英知を集めて対応する必要があるのではないか。
 私たちが原発によって享受してきた豊かな生活をもう一度しっかりと見つめなおす機会にしなければならないと思う。

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コメント


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吉永元理事長のお名前をお見かけしてコメントさせていただきました。おかやまコープの職員です。

吉永さんは良識の府というのでしょうか、尊敬しています。

神崎浩彦 | URL | 2011年08月04日(Thu)20:47 [EDIT]


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