コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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私的生協運動史

「斎藤嘉璋」
 50年前の大学生協ー2

一般紙 大学生協新聞 「大学生協は静かなブーム」と報じる新聞と大学生協連の機関紙。クリックすると拡大して読めます。

 
 数カ月前になるがある地域生協の若いトップA君と日生協の幹部職員B君と会食する機会があった。その折にB君の「生協は社会運動の一つだからな」という発言にA君は「本当に社会運動の一つと思っているんですか」と意外そうに質問した。 A君の生協は消費者運動課題や平和とか産直とかいわゆる運動課題に熱心な生協で、「意外そう」な態度をみせたのは、その理論にではなく日生協幹部や私など先輩にそんな運動論を聞く機会がなかったためのようだった。
 ひるがえって自分は他の大学生協出身者もそうだと思うが、生協に関わった当初から生協は“生協運動”という言葉通り社会運動の一つだと理解していたようである。生協運動論といったことでは、やはり全協(注)の第10回大会で決定した3つの運動課題をめぐる路線論議が実践的な学習だった。(注―大学生協連は1947年、全国学校協同組合連合会として設立、略称は全学協。翌年、小中学教職員による全国学校生活協同組合連合会設立、略称は全学協連。略称もまぎらわしく私たちは大学生協連を「全協」と呼んだ。)

 比叡山大会ー運動路線の決定
 
大学生協の歴史において1957年の全協の第10回大会から60年末までの時期は「もっとも充実した時期であった」(大学生協連「15年のあゆみ」)と言われている。ちょうどその時期に私は大学生協に関わったことになる。掲載の新聞でも大学生協が「静かなブーム」にあると書かれている。
 京都・比叡山で開催された第10回大会は消費者運動、教育環境整備運動、平和と民主主義を守る運動の3つの課題を決定した。
 消費者運動や教環運動を柱とする路線は学生には新鮮だった。「“教環運動”ってなんだ?なじめそうにない言葉だな」などと議論しながら、これら3つの課題は学生のなかで大学生協の路線として定着していった。原水爆禁止運動、砂川など反基地運動など全学連を中心とする学生運動との関係では平和・民主主義を共通課題にしながら消費者運動、教環運動を柱にしたことは“生協活動家”にある種の自信を持たせた。
 たまたま先週、生協OBの絵の仲間と群馬・片品村にスケッチ旅行に行き、生協の先輩・木原勇司さん(慶応生協から前橋市民生協の設立に参加、前群馬県連会長)に現地ガイドをしていただいた。その折に「全国消団連の結成とともに事務局に大野省二さんと一緒に派遣され、神田にあった日生協で働いた」との話を聞かされた。全国消団連の結成は1956年12月であり、大野、木原両氏は東大生協からの派遣であった。57年2月には初めての全国消費者大会が開かれるが、そんな情勢が第10回大会に反映していた。
 当時、中小企業3法が消費者利益に反するカルテル強化を図るものとして問題にされたが、特に小売商業特別措置法は生協などを規制しようとするものであった。その特別措置法の国会での成立を阻止しようと、日生協は59年2月26日、国会前に徹夜での座り込みを行い、私は大学生協東京地連代表としてこれに参加した。
 木原さんとはその晩の話もでて「ちょうど雪となり、大人たちは新橋方面に暖を取りに(一杯飲みに)行ったが、若い我々がテントを守った」ことを確認しあった。
 こんな経験が生協は運動体だと認識させたが、同時に雪の中での座り込みなど日生協や地域生協の幹部と会う機会が卒業後も「生協に残ろうか」と考えさせる一因にもなった。
(木原さんのガイドで楽しんだスケッチ旅行の様子は、リンク欄にある「かしょうの絵と雑記」をどうぞ)

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