コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

追悼    陸前高田 震災犠牲者の方々の御霊に  20日、26日

[晴3]

 20日 早朝 8時に 出会った事を語りたい。
 場所は千葉市斎場。千葉市緑区平山町。
 この日 36人の方が荼毘にふされた。陸前高田の震災犠牲者であった。
 私は たまたま知りあいからの知らせでたち会わせていただいた。

         その日、朝の荼毘
 火葬入り口回廊に横付けの大きな車2台が遠くに見えた。
 その車からご遺体の御棺が一体 一体と降ろされ台車に載せられて廊下を横切り、私たちの視界から消えていく。 
 ご遺体が廊下に見えるたびに10人に満たない人たちがご遺体にむかって手を合わせた。そこは立ち入り禁止の簡易柵の外側であった。ご遺体から60~70mもはなれていただろうか。花が3束手向けのために用意されていた。

 前に荼毘に付されていたお骨がおなじ台車で 再び車の中に安置された。終了を待って車2台が私たちの横をとおって視界から遠ざかっていった。後を岩手ナンバーの乗用車1台、目礼してすぎていった。そのとき斎場から離れたところには自発的に立ち会った10人の和尚さんの読経が静かに流れていた。 早く岩手にかえってなつかしい陸前高田にめぐり合ってほしい、そんな思いで手を合わせた。御骨は400キロ以上離れた陸前高田にむかっていった。

 それまでの普段の暮らし、培ってきた絆


         
 この間どのぐらいの時間が経過したことだろう。ご遺体が運ばれ視界から消えていくごとに思いが重なっていく。棺のご遺体は3月11日までいいおばあちゃんだったにちがいない。この棺は甘えん坊の男の子。次の棺にはおっかない親父さんかな。この棺は漁師さん。家族との夕がいを楽しみに魚を取っていたかもしれない。
 
 3月11日までは一人ひとりには当たり前の暮らしがあった。普段着姿のやんちゃな子供といいおじいちゃん。おじいちゃんには漁業の町を背負った履歴があったし、誇りもあったことだろう。 

 しかし「次の日この人たちは突然 流され、つぶされ、身元不明になっていった」。
 今日の火葬を私に知らせてくれたMさんは帰り道 そうつぶやいた。私も同じ思いだった。今もこのご遺体の肉親友人は安否を求め、海岸や瓦礫の中を捜し求めているに違いない。つづけてMさんはいう。ご遺体の肉親の人たちは「このご遺体が、岩手を遠く離れ、これまで無縁だった千葉の地でこうしてお骨になったことすら知らないかもしれない・・・・」

 あまりにも不条理、むごい。自分が生きてきた証を認めてもらうこともなく、500キロも離れた見知らぬ千葉で、 600体が 焼かれ  見送る人もなく 大型のトラックで運ばれていく。緊急のやむをえない事情は理解できる。しかし千葉の地で替わって追悼することは出来る。追悼に見えられたのは近隣の市長ではひとりだけだったという。わびしい。これでは浮かばれないではないか。 

    福祉を貫くことが真の復興。Mさんが語ってくれた

 私はMさんに話しかけた。「どうしてあなたが火葬追悼を取り仕切るようになったのか。わかるようなきがしてきた」。
「自分からかってでたんだよ。~~~」「せめて花だけでも手向けたかった」・・。
Mさんは神戸と 新潟長岡と 東北で 三度震災地で被災者救済に向き合った人だった。阪神淡路大地震のとき生協の店長を務め、当時神戸にあって千葉の房総から被災者に大量の花を贈ってもらったこと、そのお礼にと千葉にきて引きつづき請われて生協の働き手になった。

 定年後 経験を買われて全国各地に呼ばれて防災体験をかたっている。千葉の各市や四街道の自治会などにもよばれているという。今回も地震直後から3月末まで仙台に滞在し千葉に戻ったばかりだった。私は久しぶりで千葉市斎場で会うことになった。

 この日の体験をとうして私は「大震災がもたらした災害」からの「真の復興は」人々がどれだけ深く犠牲者を「追悼」できるかにかかわると思った。日本全体が悲劇を目の当たりにしている。被災地の様子は先日石巻の現地を訪ねたときに受けた悲劇の迫力。被災地のかたがたの艱難は想像に絶する。被災地、被災者ではない私のようなものでも1000分の1でも想像は出来る。想像できるのも人間ならではのこと。被災者や、支援体験者から聞くことで想像が膨らむのも人間なのだ。私はこれまで、このように「人間」に限りない信頼を置いてきたであろうか。
           追悼の意味




 を「追悼」する中で 犠牲者を自分に置き換え、或いは愛するものに置き換えてみることで支援は単なる復旧支援の作業を超え人道支援になっていくのではないか。

 阪神淡路大地震のとき「被災地に生協あり」と全国に報道された。それは「被災地に福祉あり」に近かった。パンや水の生活必需品がすべての被災者に、そして不幸な犠牲者のために何百の棺も用意され安置の場所となった。仮設住宅の土地も提供した。人道的な支援が地域社会の共感を呼び人々は再び生協を支えた。

 これより先、人道支援が長期に出来る企業,行政、NPO、個人こそ よりよくいきる活路を開いていくと思う。 被災地での判断は「命」にとって「いいか」「悪いか」しかないと彼は言い切った。支援するにも、書類や 手続きを要求する行政。異常事態なのに臨機応変の行動を出来ない官庁組織の垣根。働くものの感受性を見殺す組織病。その弊害が目立ってみえた期間であったのだが、にもかかわらず「状況を認識する」ことで人は変わっていくことが出来ると確信した。それは追悼の機会をいただいたことにもよる。かって阪神淡路大地震直後の4日間 私は被災地を歩きおびただしい犠牲者の存在を知った。たくさんの追悼の小さな花が随所で手向けられていた。M氏のいまをつき動かしているのは阪神淡路震災時の追悼の深さではなかろうか。
 26日 8時から 千葉市斎場で 犠牲者の荼毘追悼がおこなわれるという。房総から寄せられた花を持って8時半ごろから参列しようと思う。死をむだにしたくないために。
  

スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。