コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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東日本大震災報告ーその3

[加藤善正]
 東日本大震災から2週間、昨日25日になってやっと現地、釜石市・大槌町・山田町・宮古市へ行くことができました。テレビや写真では見ていましたが、津波被害の恐ろしさ、大きさを実感してきました。地震で壊れた家屋はほとんど見えず、すべては巨大津波の被害です。釜石市役所生協の理事長や職員に会いい見舞いと同時に市役所の現場を見ましたが、電気もつかず人影も無く生協の売店は水びたしです。市役所は駅近くのシープラザという施設に移り、災害本部にもなりごった返しの状況です。野田市長にも会いお見舞いと激励の挨拶をしましたが、市役所生協を通じてのコメの支援や、いわて生協の支援物資の配送や炊き出しに感謝をされました。市街地は道路から瓦礫を除いて車がやっと通れましたが、1~2階まで水に浸かった商店街は復旧の見通しなどまだ考えられない状況です。少し北側の鵜住居という集落は全滅状況で、平地と川の両側は瓦礫の山です。
大槌町は海岸沿いのきれいな町でしたが、ここも平地はほぼ全滅で商業集積された新しいショッピングゾーンの店舗はすべて破壊されていました。この町はいわて生協の班員組織(共同購入)が住民比率で一番高い町でしたが、こうした皆さんの多くは帰らぬ人になられたと思うと、立ち去るのに後ろめたさを感じました。町役場が津波の直撃を受け、この町の高校卒で町役場の職員として働き、4年前に町長になられた加藤町長は、温厚な方でした。誰よりもこの町を愛して働き続けた方だけに、その死は町民の悲しみを大きくしたことでしょう。山側の国道を10kmほど入ると、閉校になった小学校を使った公民館らしきところで、いわて生協の豚汁炊き出しが行なわれており、135名の避難された方々が久しぶりの温かい昼食に喜んでいました。私も盛り付けを少し手伝い励ましてきました(この日はこの町の3箇所で行なった)。

山田町は栽培漁業の盛んなところで、40年ほど前盛岡市民生協設立直後に、始まったばかりの養殖ホタテの産直に訪れ、当時の漁協組合長(その後県漁連の会長を長くされた方)に、町の食堂で丼いっぱいの生うにをご馳走になった思い出の町でしたが、養殖漁場も住宅もあらゆる施設も、津波とその後の火災で瓦礫の町に変わっておりました。
宮古市は盛岡以上に生協のシエァや影響が大きいところで、DORA(銅鑼)という2千坪のショッピングセンターがあります。10数年前にこの店舗を立てる時、海岸から近く閉伊川という川の堤防の近くで津波の心配をしたとこれです。従って、大津波のラジオを置きいた時にはすぐこのDORAを心配しましたが、幸い水の影響もなく市民の皆さんが多数訪れていました。みやこ映画生協はこの2階にありますが、建物検査もあり、市民おの気持ちのこともあり26日から午前、午後2回上映を予定しているようです。改めて現地を見ると、閉伊川の川幅が広く堤防もかなり高く、津波がこの川幅いっぱいに広がって、わずかの堤防越えで収まったようです。
宮古市役所は2階まで津波に侵されていましたが、停電の中でも職員が懸命に働いており私が帰る20分前に2週間ぶりに通電し全員が拍手をしていた。宮古市職員生協は、デッキで連なる別建て(2階)の施設ですが、やはり水をかぶり売店も食堂も泥まみれでした。しかも1階の駐車場の柱にひびが入り使用ができないようでした。専務理事との話では、当面、施設の関係もあり、売店や食堂の営業再開よりも、住宅再建のためのローンや自動車ローンの斡旋(給与控除は生協の得意技とか)、いわて生協の共同購入の斡旋などに力を入れたい、という元気な話を聴いてきました。(この専務は非常勤で市の「産業支援センター長」で、経営手腕もあり生協の内部留保もある)
宮古市は中心商店街に水が流れた込み、船が道路をふさいだとのこと、しかし被害は津軽石川を登る津波が5メートルの高さの防潮堤を乗り越えた地区と魚市場の近くの鍬が崎地区、そして宮古市田老町(合併で宮古市になった)が大きかったようです。

時間があればこの田老町の田老漁協の小林前組合長を訪問する予定でしたが、小林さんはご無事でおられるという市役所の情報で、後日訪問することにしました。彼は「真崎わかめ」のブランドで35年前ごろ、当時は乾燥わかめが主流の中で、塩蔵わかめの工場をつくり、休日返上で毎週土・日に盛岡市民生協の店舗で、塩蔵わかめの美味しさを熱心に組合員に勧め、これが「真崎わかめ」産直のスタートになった方で、私が長い間尊敬して来た方です。
この田老の町には高さ10メートル、巾2・5kmの巨大な防潮堤・津波堤防があり町民の自慢でもありました。しかし、この自信・大きな津波防波堤への信頼が、避難を遅らせ死亡者が多くでたのです。
最近「想定外」という言葉が流行り、学者・研究者も自らの研究不足や責任逃れのために使っていますが、こと津波については、過去最大の津波であった、明治津波の高さを基準に防災計画を立てていました。しかし、少なくても、その最大経験値の1・5乃至は2・0倍ぐらいの「危険値・リスク値」を加味するのが、こうした天災予側の常識ではないでしょうか。原発問題でもそうですが「想定外」という言葉を使うコメンテーターや研究者は、「無責任な人間」と思えてなりません。

このこと一つとっても、今度の大震災・巨大津波の問題は、大きな教訓を導き出さなければなりません。いま、日本法律家協会の依頼で『法と民主主義』4月号の「企業の社会的責任」という企画で、「消費・流通と生活協同組合の社会的責任」について、原稿を書き上げましたがこの中でも、今回の震災におけるいくつかの問題を述べていますので、興味のある方はご覧頂ければ幸いです。

岩手県の知事選挙は延期になっていますが、県庁という行政の無責任さに腹が立ってしょうがありませんので、少し書いて見ます。県が全国からの緊急支援物資を2箇所のセンターに集めて、それぞれ満杯の状況です。しかし、被害に遭った各市町村や避難所にはまだまだ不足する物資が後を絶ちません。この原因は、県の物資配送責任者は、各自治体から要請のあった物資を配送する、県のほうから「こんな物資は如何ですか」という働きかけはしない、という原則を守っています。しかし、市町村の災害対策本部は、庁舎が損害を受けたり、陸前高田市のように五分の一の職員が亡くなったり、自宅や家族の
の流出、通勤道路の破損、ガソリン不足で泊り込みの者も多く、何百という多くの避難所を訪問して必要物資を聞き取り配送するのも、軽油不足や通信手段の欠損もあり、思うに任せないようです。この時、物資受付センターでの仕分けや移動、積み込みなどは雇用労働者に任せて、地域振興局はじめ全県庁職員ができるだけ市町村に出かけて駐留し、市町村職員をサポートし、時には指導して、必要物資を自ら同僚の県職員と連絡を取り、受身ではなく必要に応じて「送り込む」ぐらいの役割を発揮すべきです。そうすれば問題は一挙に解決するはずです。被災地を訪問して握手している知事は、このことぐらい判らないのか、「社会的責任」「行政責任」「知事個人の責任」を如何に考えているか、嘆かわしい限りです。
今度、初めて被災地を訪れて、こんな義憤に駆られています。

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