コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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パラダイムシフトに対応して、我々(生協)はいかに変態(メタモルフォーゼ)すればいいのか

 前回の記事「コープみやざきが生み出したイノベーションの一歩」を読んで下さった、コープみやざきの元副理事長で「生協実践研究会」の前代表世話人(現常任顧問)でもある椎木孝雄さんが、コープみやざきが考えてきたことをまとめた、表記のタイトルの文書のファイルを「参考までに」とメールで送って下さいました。
 「生協の主要な流れは、まだ『生協は何をするところか』という単純で重い問題を見極めている状況にあるわけではない。」と述べ、「コープみやざきでは、我々の本分は、オーナーである組合員が暮らしにおいて欲しいモノを買うことに応えること(購買対応業)と捉えた。一見小売業と変わらないようにみえるが、売る側から業を捉えるのと、買う側から捉えるのとではその原理は根本的に異なる。暮らす側・買う側から事業を再構築したいと思うのである。そして需要(デマンド)側から、供給(サプライ)側をコントロールする経済システムへとつなげていきたいと思うのである」としています。
 OCR注文書の改善を進める上で背景となった考え方「購買対応業」という基本について、その考え方の依ってきたるところまで解き明かされている論稿であり、日本の生協の再生についての根本的な問題提起をされていると受け止めました。当ブログのメンバーや読者の皆様にもご紹介したく、この論稿をコラボ・コープOBに掲載させていただくことについて椎木さんにご了解をいただいた次第です。
 なお、この論稿は「共創の広場」という研究誌のNo15号に掲載されたことがあり、今回はそれを転載させていただくことになりますが、その主宰者清水博先生(東京大学名誉教授)からも、転載についてご快諾をいただいていることを申し添え、感謝申し上げます。    大友弘巳

寄稿

[椎木孝雄]

-「人間存在の相補的二重性からみた経済について」(清水博先生)に触発されて

使用価値を高める
 経済の問題を考える場合、「経済」という言葉の意味を正確にしておく必要があると思う。新聞やテレビで使われる「経済」とは、マネーのことをさすことが多い。英語のエコノミー(economy)は、日本語では、節約・倹約を意味し、「経済」のもとの意味とは、かなり異なるように思う。「経済」の本来の意味は、「経国済民」あるいは「経世済民」であり、「民・たみ」を救済するよう国や世の中を運営するということだと理解している。「経済」とは、モノの有用性(使用価値)とマネー(交換価値)の両側面を、人々が救われるように運用することと理解し、考えていく必要がある。ついでに「経」とは経糸(たていと)のことだそうだ。

 マネーは、経済学でいう交換価値を体現するものであり、交換の尺度である。したがって、それは量のみを表現する。汗水たらして稼いだお金も、賭博で稼いだ金も、市場では同じ値打ちしかもたない。マネーは使用価値(モノの有用性)と交換するときの価値尺度となる。売り手と買い手の合意によりその有用性とマネーが交換される。交換価値は、売り手と買い手との関係によって決まるが、量を表わすという意味で、価値は一様である。そのように、価値の一様性は交換価値側面によると考える。

 資本論によると、交換価値と使用価値の矛盾的自己同一が商品だとされる。使用価値は、モノの有用性のことだが、すでに商品ではない、〝死んだばあちゃんからもらったお守り〟とか、〝子ども時代の思い出の品〟とか、〝自然の景観〟などの場合も使用価値でありうる。使用価値はそれを消費(享受)する必要を感じるときだけ、感じるところだけ、使用価値でありうる。交換価値は商品にしかないが、使用価値は商品にとどまらず、モノの有用性としてもっと広く捉える必要がある。その使用価値実態は、無限の「生命・はたらき」の集積、「縁」によって成り立っているのであり、だからこそ多即一・一即多が可能になる。そして、モノ(使用価値実態)とそれを使う人との関係によって使用価値は決まる。したがって、モノ(使用価値実態)の性質は変わらなくても、使い方が高まれば、使用価値は高まる。さらに、仮にモノ(使用価値実態)の質・量は一様でも、人によってその使い方・役立ちかたは無限である。使用価値は本質的に多様である。

 先日見たテレビ放送に、マサイ族のサファリ案内人が出ていたが、彼らマサイ族の最大の財産は牛だと言う。ひときわ大きい白い牛を指差して、「あの牛は絶対に売らない、売るくらいなら、いっそ家族で食べますよ」と話していたのが印象的であった。ところが、インドでは、牛は神聖なものとされ食べない。アメリカでは、食用の牛を育てるのが農業の柱の一つになっているが、それを食べないベジタリアンもいる。そのように、使用価値は、使用する人の価値観で変わる。使用価値は、その有用性を人間の身体全体で吸収し感じ取る、一食・一触の世界である。頭で考える認識論的価値観でなく、身体全体で感じ取る身体的価値観・存在論的価値観と言ってもいいと思う。一食・一触は受け取る個人によって微妙に異なる。そのように、価値の多様性は、使用価値側面によると考える。

 以上のことから、「経済」を「経国済民」あるいは「経世済民」の問題、自分を含めた人々の救済の問題として捉えようとすると、マネーなど交換価値という非常に狭く浅い観点だけからでは、捉え切れないことになる。まして人間存在の相補的二重性は捉えにくくなる。むしろ使用価値観点によってこそ、人々の救済は多様になる。人間存在の相補的二重性(局在性・遍在性)も捉えられる。そのように、多様性に立脚した秩序とは、使用価値リードの社会に異ならないと思うのである。

変態(メタモルフォーゼ)
 一様性から、多様性に立脚した秩序への転換には変態(メタモルフォーゼ)が必要、との指摘はまったくそのとおりだと思う。今、求められている変態(メタモルフォーゼ)とは、交換価値側面を物差しにして評価することから、使用価値側面を物差しに変換が起きることであると思う。言葉を換えれば、「即自的、無媒介的な利を求める自己」から「世のため人のために尽くすことに喜びを感じる自己」、「多即一・一即多を行いうる自己」になることと言ってもよいかもしれない。つまり、変態(メタモルフォーゼ)とは、欲望の高次化、すなわち自己中心的自己の欲望から、場所中心的欲望への転換である。

 『般若心経』に、「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」という言葉があるが、矛盾的自己同一の変態(メタモルフォーゼ)をうまく言い表していると思う。この言い表し方はいろいろなことの表現に応用がきく。生死の場を生きることを表現しようとすれば、「生不異死 死不異生 生即是死 死即是生」となる。つまり何に命をかけるかである。欲望を制御するには、「煩悩不異菩提 菩提不異煩悩 煩悩即是菩提 菩提即是煩悩」である。煩悩をどう菩提に高めて行くかは、欲望の実現方法をどう高めていくかである。そのように、売買は、「売る不異買う 買う不異売る 売る即是買う 買う即是売る」であり、使用価値は、「生産不異消費 消費不異生産 生産即是消費 消費即是生産」である。

 それにしても、変態(メタモルフォーゼ)するためには、他を自己に映す自己の高次元化ができねばならず、そこに挑戦するためには相当の勇気と努力が必要であろう。変態(メタモルフォーゼ)したいという内的衝動はいかにして生まれるのだろうか?変態(メタモルフォーゼ)するためにはどうすればいいのだろうか?そしてそれはこの自分でもやれることなのか? この問いかけを自分にしてみると、内的衝動は存在の危機を感じたときに生まれるような気がする。存在の危機に直面して、存在し続けたい生命のはたらきが、存在するための変態(メタモルフォーゼ)を求めるのかな、という気がする。
 あるいは逆に、「行深般若波羅密多時照見五蘊皆空」のごとく、民の救済(幸せ)をもとめて、その実践を深く行なうとき、その深さに応じて変態(メタモルフォーゼ)し、変態(メタモルフォーゼ)した自己と出会えるのかも知れない。

 変態(メタモルフォーゼ)とは、以上の認識ができ、かつそれが行える(それが行なえ、かつその認識ができる)ようになることではないか。『般若心経』に、般若波羅密多行という、他者を救済することによって自己を救済するとういう修行方法がある。しかもこれには完成がない。この修行方法にあたるものをそれぞれの日々の生活や仕事で実践することが必要であろう。私の場合、沖縄古伝空手の修行がこれにあたる。

交差点モデルによる品揃え
 清水博先生が卵モデル、即興劇モデルに続いて提案された交差点モデル(清水博「人間存在の相補的二重性からみた経済について」、『場と共創 第13号』掲載)はわかりやすい。コープみやざきでは、市中に無数にある商品(カオス)の品揃えにあたって、皆が満足するように秩序づけるにはどうしたらよいかを考え、店舗の品揃えの考え方を整えた。それは、日野市の図書館で実施された新しい図書館の運営・蔵書構築の理論を応用して、従来の「コープ商品を普及します、○○は置くべきでないから置きません」という考え方から、「普段のくらしでよく使われるもので、要望が高いと思われる商品をおきます。要望があれば、法律で禁止されたもの以外はおきます、取り寄せます。買われる実際を観て変更していきます」に転換した(1988年)。欲しくない商品は買わなければいいが、置くべきでないとされる商品(コカコーラ、ラス洗剤など置いていない生協がほとんどだった)を欲しい場合、無ければ買えない。つまり、生協は良かれと思い販売するが、決定権は買う側にある、買う側の意向に従う、と整理したのだ。そのように転換してから、皆が満足とまではいかないが、考え方としては、組合員・職員も納得できていると思う。これは、交差点モデルの一つの例になりうるのではないかと思う。

生協のミッションとは
 「マネーを超える高い価値観を、日本の社会は本音としてはまだ発見していない。そこでは志と真の冒険心とが育たない」(清水博「前掲論文」)とある。それは、利潤を目的にした株式会社という仕組みが支配的になって、交換価値リードの社会になっているからではなかろうか。マイクロソフトのソフトと互角になってきつつあるリナックスのソフトのように、協同組合やNPOが国民生活にとって役立つ実績、無くてはならない存在感をしめし、実質経済を担えることが国民にわかってもらえるようになれば、マネーという一様的価値観から解放され、使用価値リードの多様的価値観が育つようにも思う。つまり、ローカル線を行く協同組合、NPOといえども、新幹線以上に質的に高次の存在たりうることが求められているように思えてならない。

 だが現実には、協同組合やNPOなど、高い理想は掲げても、いつまでもマイナーな他者依存的存在で甘んじていたり、社会的影響力をもつよう規模の拡大をめざしたものの、その過程で価値観がマネーに置きなおされていたりして、世のため人のために役立つことよりも、自己の利益を上げることや生き残りのみを自己目的にしているのが現実かも知れない。理想は高いが広がらない、広がってはいるが魅力がない。そんな状況ではないか?

 そういう状況の中において、生協は、いかなる変態(メタモルフォーゼ)を遂げるのか。それが我々に与えられたテーマである。だが、生協の主要な流れは、まだ「生協は何をするところか」という単純で重い問題を見極めている状況にあるわけではない。私にはそうみえる。コープみやざきでは、我々の本分は、オーナーである組合員が暮らしにおいて欲しいモノを買うことに応えること(購買対応業)と捉えた。一見小売業と変わらないようにみえるが、売る側から業を捉えるのと、買う側から業を捉えるのとではその原理は根本的に異なる。暮らす側・買う側から事業を再構築したいと思うのである。そして、需要(デマンド)側から、供給(サプライ)側をコントロールする経済システムへとつなげていきたいと思うのである。

 最近、福祉事業や環境事業を興したり、食品の安全をめざす社会運動を重点課題にする生協がある。それを否定するわけではないが、我々の捉えかたは少し角度が異なる。我々は、本業としている購買対応業において、福祉性(社会的弱者でも普通に買えること)や、環境を壊さないようにすること、食の危険を排除することを貫くようにしたいと考えている。つまり、分野を広げることよりも、暮らしの側から、既存事業を深めることに主眼を置いている。そして、そのことをとおして、組合員一人ひとりが、自ら考え、自らの責任で暮らしていくその主体が形成されるように願い、またそれに応え続けられる生協になる決意を込めて「“私たちが供給する商品を中心に家族の団らんがはずむこと”をめざします」を基本スローガンにしている。
 買い物は、誰でもが行う凡事であるし、それに応えて売ることもまた凡事である。幸せに暮らしたい、そのことに応えたいという凡事を徹底して実践することで、「組合員が変わり、職員が変わり、生協も変わる、そして社会も変わる」そんな道を拓きたいと思っている。そのことにおいて、志を高く、構えを大きく、具体的な行動をもって、全力で実践していかねばならない。そう本気で思っている。

 商品や企業や組織がマネーを超える価値観を見出せない場合、とくに協同組合などの高邁なスローガンを標榜している組織はなおさらなこと、人々や地域社会(純粋生命)から退場を迫られるというか、あてにされなくなると思う。そんなことになりたくはないし、なってはならない。真剣にやらねばならない。

生協の実践課題
 具体的実践課題として重視したいことの一つは、「買う人の使いこなし能力が高まるように関わる(純粋生命の活きをたすける)」ことではないかと考えている。そのことから、コープみやざきでは、これから先、組合員の「商品の使い方を交流すること」にエネルギーを使うことにした。例えば、組合員からこんな便りが寄せられる。
「娘は、白だし(醤油)が大好きで自分でも作ります。『♪お水にちょっぴりだしを足し♪白だし入れてワカメを入れて♪グツグツなったら溶き卵♪。最後におネギを入れましょう。♪おいしいスープの出来あがり♪』と歌いながらつくります」(赤塚さん)。
 料理の場面が目に浮かぶようだ。これを、商品案内カタログに載せたら反響があった。このように、商品の性質は一つでも、使い方は使い手の数の十倍ほどある。商品に込められた潜在的使用価値を引き出す行為は、使用価値を高めると同時に、使い手の使いこなし能力を高めることになり、暮らし能力を高めることになると思う。組合員同士、教え・教えられる場を創ることは、観客(純粋生命)の活きをたすけることの一つではないかと思う。それはまた、暮らしを楽しくすることにつながる。同じモノを使って、つまらなくも暮らせるし、楽しくも暮らせる。どうせ暮らすのなら楽しく暮らすほうがよいではないか。組合員と職員とで、生協をその場として、そのことをやり続ける。そうすれば、組合員・職員の暮らす能力・それをつむぐ能力が高くなると思う。そうすれば、「市民の使い方(暮らし方)が変われば、買い方が変わり、買い方が変われば、生協が変わり、小売業が変わり、製造業が変わり、日本が変わる」となるのではないか。世の中、商品を使わない人、買い物しない人はいないのだから、生協はいい位置にあると思う。必ずそうなる、そんな希望をもって取り組んで行きたい。

 そうして、そうしたものどうしが連携をとり、生協の枠を超えて、地域的にも全国的にも横につながり、全国的に場を形成していくことが必要であると思う。経営が経糸であれば、各生協の経営をきちんとしていくと同時に、実践研究会の場などで、個別生協の枠を超えて、同じ志をもつ取引先や諸団体・個人も含めた緯糸(よこいと)をつむいでいかねばならない。経緯営(経糸緯糸をつむいでいく)という運営概念が必要になってくるのではないか。その「公」の場をどのように設計するか、それが生協実践研究会の本当の研究課題かも知れない。生協実践研究会が、国民にとって役に立ちつづける(純粋生命のはたらきを助ける)生協へと変態(メタモルフォーゼ)する。それを導くリーダーへと変態(メタモルフォーゼ)する、そんなことができる場になればいいなと思う。

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