コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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遠藤さんの思い出

[大友弘巳]

<同行の友>
 去る12月19日、遠藤捷彦(いばらきコープ前理事長)さんとの「お別れ会」と、「偲ぶ会」に参加し、思い出を少し紹介しました。それに付け加え、また、既に、高橋さんが、大学生協設立の頃の思い出を中心に「遠藤兄の生協にちなんで」を投稿されていますので、私は、地域生協設立の頃や、県域を越えた事業連帯に共に取り組んだ頃の思い出を中心に記して遠藤さんを偲びたいと思います。
 遠藤さんと私は二つ違いで私が年長ですが、2人とも、学生だった60年代に大学生協の設立に関わり、生協に残って専従者となり、70年代は地域生協作り支援に携わって自らも地域生協へ飛び出し、80年代は、県内の地域生協の連帯を進めると共に、県域を越えた生協間の事業連帯の構築に関わり、90年代には、一緒に東関東コープネットワークの設立を経てコープネット事業連合の創立に取り組み、00年代は、遠藤さんは茨城県生協連、私は日本生協連と、活動の場は違いましたが、連合会で役割を担い、最後は大学生協OBの会である「ユニコープ友の会」の幹事として一緒に活動し、時々会って会議が終わったら懇談することを楽しみにし合ってきました。
 約45年間にわたって、同じような生協人生を歩みながら、相談をし合ったり、助け合ったりを重ねてきた、まさに同行の友でした。長い間の交誼に本当に感謝しています。

 遠藤さんは体調が悪くなって、今年の5月のユニコープ友の会の幹事会には欠席されました。
 高橋さんと私は7月の総会でユニコープの幹事を退任しようと相談し合っていましたので、その時、遠藤さんとも一緒に相談したかったのですが、それがかなわず、止む無く後日電話をかけての相談で賛同を得たのが、言葉を交わした最後になってしまいました。
 高橋さんと、水戸へ出かけて遠藤さんを見舞い、久しぶりに一緒に懇談したいと話し合っていたのですが、それを果たせないまま急逝の報を受けることになってしまったことを悔やんでいます。

<水戸市民生協の創業のころ>
 水戸市民生協は、私が関わった埼玉中央市民生協(1970年12月創立)より少し遅れて、その翌年、茨城大学生協の支援によって設立されました。
 当初は小さな店舗を運営しながら共同購入も行うという形態で、茨城大学生協から職員を出向で送り出してはいましたが、細々との感じで、経営的にも赤字続きでした。
 その後遠藤さんが自ら移籍してその状況を打開することになり、要請がありましたので私も水戸へ訪問し、埼玉の共同購入の経験を話させてもらったことがありました。
 職員の小野瀬さんと、応援の組合員理事さんらしい方と3人で、小さな店舗を運営して苦労しておられた様子が今も思い浮かびます。
 その後、遠藤さんは小さな店舗を閉鎖して共同購入の拡大発展に全力を集中することを決断し、組合員に理解を求めたのでした。それが転機となって、赤字も解消し、県下最大の生協へと発展して行くことになりました。
 また、土浦でも茨城大学生協の支援によって茨城県南生協が設立され、そちらは最初から共同購入に集中して進め、順調に発展を続けることになりました。

<北関東3県の事業連帯の光と影>
 80年代に入り北関東3県の生協で事業連帯を目指す協議が始まったときから、遠藤さんは積極的に参加され、地域生協では日本で初めての事業連合法人「北関東協同センター」の設立に大きな役割を果たしました。
 北関東協同センターは、商品の共同仕入れだけではなく、商品企画、共同購入注文書の
作成、物流センター、セットセンターも事業連合が担うなど、日本生協連の事業と連携して高度に共同化を達成し、これによって北関東3県の各生協の共同購入事業は飛躍的な発展を開始することになりました。
 しかし、問題や限界も最初から抱えていました。
 同じ事業連合の会員であり、同じ商品を取り扱いながら、同じ地域の中でいくつもの生協が競合しあう関係となっており、思想信条の違いを超えて地域の中で協同連帯するという協同組合の理念とは反する事態を生じていました。県毎に県内連帯をどうするかということが大きな課題となっていたのです。
 また、北関東協同センターは、共同購入事業だけの連帯であり、店舗作りを進めていくことについては、3県のこの連帯だけでは難しい課題となっていました。
 そうした中、遠藤さんは栃木の針川さんらとも相談し、千葉や埼玉の生協を含めた5県の事業連帯を考えるようになり、大学生協時代からの縁で、高橋さんや私に声をかけてこられることになったのでした。

<東関東の事業連帯への協議と、各県毎の連帯の推進>
 その頃埼玉では、首都圏の事業連帯にどう参加するかが検討課題となっていましたが、まだ機が熟しておらず、当面は千葉および北関東3県の生協との連帯(東関東連帯と呼称)が検討課題となっていました。
 そうした中、遠藤さんのお世話で、1987年10月、大洗海岸へ集まって「東関東連帯トップ協議会」が開催される運びとなり、以後1990年末まで、2~3ケ月に一度くらいの頻度で、5県を巡回しながら協議会が開催されることになりました。
 東関東で事業連合を立ち上げる上で最大の難問は、当時の厚生省が、北関東協同センターの中心的な会員生協が同時に東関東の事業連合にも加入することについて難色を示していたことでした。
 北関東3県の主要な生協が実質的に東関東連帯に集中することになれば、北関東事業センターが空洞化し、崩壊する心配があるという理由でした。 
 認可を得る見通しも無しに事業連合の設立総会を開催するわけにも行かず、しかし、店舗を作る準備が茨城でも栃木でも始まっており、それを中断するわけにも行かず、窮余の策として任意団体として「東関東コープネットワーク」を立ち上げ、認可の見通しが立つまでは、生協間連帯でさいたまコープが商品部やシステムや物流の機能の担うことで対応することになりました。
 こうした便宜的対応を長く続けることには無理があり、1日でも早く解消できるようにしなければならないわけで、そのためには北関東3県で県内連帯を進めると共に、他の生協から理解される関係を作って、厚生省の了解を得られるようにすることが必要でした。
 1年以上の努力を経て、北関東協同センターがコープネットに加入する方式、つまり事業連合が別の事業連合に加入することができるようにするという新たな方式を厚生省に提案して了解され、ようやくコープネットが認可される見通しが開け、1992年3月にコープネット事業連合の創立総会を開催することができたのでした。(北関東協同センターのコープネットへの加入は93年度に実現)
 こうした検討期間中に各県毎に県内連帯が進み、合併できるところは合併して店舗展開を担う力量をもった拠点的な生協を作り、合併は無理な場合でも、拠点的な生協が県内連帯に責任を持って支援する形での業務提携を結び、競合するだけではなくて協同する関係を作ることを目指すことになりました。
 3県では茨城がいち早く、1988年3月に三つの生協が合併していばらきコープを発足させ、遠藤さんがその専務理事に選出されました。
 ところが、合併に参加しなかった生協との関係では、栃木県や群馬県では、かなり意見の違う生協とも連携が進んだのに比べ、茨城県ではなかなか話し合いが進まず、遠藤さんが一番苦労したのではなかったかと思っています。
 
<次代を託す幹部を事業連合へ
 コープネット事業連合の創立に当たって、これを成功させるために、会員生協から最も力がある人材を出し合うことを申し合わせました。トップが自分の後継者にしようと考えている人を事業連合に送り出し合い、数年後に会員生協へ戻って連帯の推進者として活躍してもらうことを想定していたのです。
 遠藤さんは、率先して佐藤さん(現いばらきコープ理事長)を送り出してくれました。
 議論は得意ではありませんでしたが、誠実で、行動は率先垂範、信頼できる人柄でした。

<茨城大学の出身者が多数活躍していることを喜びに>
 もう何年か前になりますが、遠藤さんがふと、茨城大学で生協の理事や学生委員などを経験した人たちが多数、いばらきコープだけでなく、各地の生協や連合会で活躍していることを、うれしそうに、誇らしげに語ってくれたことがありました。
 その数を定かに記憶してはいませんが、100人近い数だったので驚いたことを思い出します。 地方のあまり大きくない国立大学の生協としてはもちろん、大手の大学の生協を含めても、それほどの人材を輩出している事例は珍しいはずと思ったからです。
 後輩たちが多数成長して頑張っていることを何よりの喜びとしていた遠藤さんは、もともと故郷で高校の教員になることを予定していた人らしくもあり、働く職員の力が大きな原動力である生協のリーダーとしてその価値観は尊敬すべきものでしたし、功績は大きかったと思っています。

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