コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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私的生協運動史

「斎藤嘉璋」
50年前の大学生協
 学生時代に生協に関わってから今年で50年である。大学2年生の終わりのころ1958年の年明けから早大生協の組織部員として携わったのが初めだが、6月総代会で理事になると当時「全協」と言われていた大学生協連担当となり、東大で開かれた全国総会以降は常務理事として代官町(現・北の丸公園)に通うことになった。
 その大学生協連が58年に法人化しており、今年法人化50周年である。といったことで、このブログではしばし50年前のことを書かせてもらう。

法人化―組織基盤の確立めざし  
 大学生協は生協運動全体がそうであったように戦後すぐには高揚したが、ドッジライン強行といったなかでほとんどが活動を停止あるいは解散し、1948年には260もあった組織が1年後には20に満たない数になった。

学協運動目次(1958年9月創刊の「学協運動」誌、山田君が担当し、私も協力)

 1950年代中ごろから各地で大学生協の再建が進み、大学生協連も会員生協が40を超えた56年には杉本時哉さんを常勤の常任理事会書記として迎え、57年の第10回大会(比叡山)では運動路線の確立を進め、58年3月には法人化のための総会を開催した。
 私が東京地連担当常務理事として代官町の学生会館(旧近衛師団の建物)にあった全協にほぼ毎日のように通うことになったのはこの頃であった。杉本さんは書記から専務理事になり、57年の全国事業委員会の発足にあわせ高木敬一さんが東大生協から派遣され、事務局の女性との3名が専従者で、情報担当常務の山田誠君(東大駒場)と私が学生半常勤であった。
 法人化など連合会としての体裁を整えつつあった大学生協連の内実は大変で、学生の二人はそれぞれ出身生協から手当をもらっていた(組織部では3000円だったが、常務理事になって5000円?)が、専従者の給料なども遅欠配があるほど財政は厳しかった。高木さんなどは「印刷に使うわら半紙も文具も欠乏――とても仕事にならず逃げ出して東大駒場の一隅で仕事をした時期もあった」と書いている状況だった(「大学生協の歩み」大学生協連)。秋の全協事務局のレクレーションは福島・磐梯山と気張った企画で喜び参加したが、翌日は杉本さん、高木さんは東北地方での会費や商品代金の集金旅行に向かった。
  たまたま先月、神戸の鈴木英喜さんから久しぶりの電話が自宅にあった。鈴木さんは理科大生協で学生専務を務めており、卒業後神戸生協に行き、私は彼がコープこうべの商品検査センター長だったころに再び親しくさせて頂いていた。電話での話は「全協の法人化総会をやった勝浦では珍しく雪がふった」などと50年前に飛んで、往時を懐かしんだ。
 その総会は3月の全国理事会のおりに法人化生協の代表によって開催され、「早稲田は法人化してないから出なくていいんだ」と言われたのを覚えている。学生のところの議論で覚えているのは、次の東大で開催予定の第11回「大会」が「総会」になることの是非だった。「株主総会ではあるまいし、全国大会だから意気が上がるんで総会ではやる気がしないよ」といった議論で、行政に「認可」される、監督される法人への懸念、反発があった。早稲田など単協で法人化が進まない理由もそんなところにもあった。
 当時、全協は電話も自前では引けず、隣の学徒援後会の親電話から用事があるとスイッチを切り替えてもらいながら作業をしていたし、援護会からは資金融資もあった。そんな「援護」は棚に上げ、行政からの「独立」を叫んでいたわけであり、当時、お世話になった援護会の近藤英男さん(大学生協連副会長、顧問)の温和な、困ったようなお顔を思い出す。
 法人化は会員生協でもそうであったが学生専務制から専従専務制への移行とあわせ、当時、大学生協の組織と経営の基盤確立のための大きな課題だった。

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