コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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老朋友

[吉永紀明]
 大友さんのペンネーム「少老朋友」を見て思い出したことがあった。
 中国の文化大革命で、日本と中国の生協間の交流が長いこと途絶えていた。ようやく文革も終わり、中国商業省から日本生協連に招待状が届いた。代表団は中林会長を団長に、秋田の富樫さん、東京の森定さん、灘神戸の長川さんが団員で、私が事務局の5人だった。4人とも今は鬼籍に入っている。
 北京、蘇州、杭州、廬山、南京、上海を巡る旅だった。
 杭州に到着して、代表団が出迎えの杭州の人たちに向かって歩き始めたとき、真ん中にいたツルりとした頭の人民服を着た小柄な男性が、私のほうに駆け寄ってきて両腕で私を抱きしめました。
 私はびっくりして「団長はこちらの人!」と言って、その腕を振りほどこうとしたが、その男性は「老朋友(ラオ ポンユウ)」と言って手を離しませんでした。

 

 これには経過があって、日中生協間交流の再開ということで、その前年日生協が中国供消(本当は金偏に肖です)合作総社に招待状を出した。中国供消合作総社は当時国の統制経済下に置かれていて、商業省の管轄下にあった。
 代表団も国務院の元貴族だった女性が団長だった。そして団員の3人のうちの一人に杭州供消合作総社の宋 少壮主任が含まれていた。
 その代表団を私が事務局として、日本各地を案内することになった。通訳は当然団長と副団長に付くので、私と宋主任は飛行機でも車の中でも隣り合わせになった。お互いに言葉がわからないので、仕方なしに手帳に漢字を書いて、家族のことや仕事のことなど筆談をした。また、簡単な言葉をお互いに発音して覚えた。
 そんなことで仲良くなり「ぜひ杭州に遊びに来い」とも言われた。
 そして、翌年日本の代表団の事務局の一人として訪中が実現した。
 宋主任は、その後ようやく私の身体から離れて、中林団長に挨拶に行った後、また私のところに来て肩を抱いて迎えの車に向かった。
 歓迎の席で、宋主任が私に「中国では一度仲良くなった友達は”老朋友”として大事にする。どんなに偉い人が一緒でも、老朋友は君なのだ」と言われた。
 中林団長を差し置いて、事務局員にすぎない私に真っ先に駆け寄って「老朋友!」と抱きついてくれたことに、面映さと同時に本当の友情を感じた。

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コメント


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「老朋友」考

思いがけず、吉永さんの体験に基づく「老朋友」にまつわるエピソードを拝見して、うれしく思いました。
私が「少老朋友」というニックネームを決めたいきさつは最初に説明したとおりですが、少し補足したいと思います。
最初は、友の字にこだわって片仮名にしたり、ローマ字表記にしたりしてFC2ブログへの登録を試みたのですが、いずれも既にその名前を使っている人がいるのでダメということになり、ほかに使われていそうにない名前を考えださなければならなくなったとき、思い出したのが「老朋友」だったのです。
五木寛之の著「人間の関係」の中で、「国を捨てるほどの友はいるか」という章に紹介されていたのですが、「老朋友」(ラオパンヤオとふり仮名がされていました)というのは、年老いた友人のことではなく、長い歳月をかけて築き上げてきた信頼関係をあらわす言い方ですとしています。
五木氏はその前段に、「中国人は、長い歴史のなかで、繰り返し繰り返し国家や体制の崩壊と時代の転換を経験してきました。」「そんな積み重なった記憶と体験のなかで、中国の人びとは政治体制よりも、友人のほうが信頼できると考えてきたようです。『易経』という古い文書にも出てくる朋友という言葉には、そんな重みがあります。」とも述べています。
それ以上のことは、もし興味を感じられた方は「人間の関係」をお読みいただくとして、その後に続いているエピソードも含めて私はとても感銘を受けていたのです。
良い友を得たい、それには自分がまず良い友になれるように努めなければならないと考えています。が、実際にはなかなか出来ないことなので、少しはそうありたいという気持で少を付け加えているのは先に述べたとおりです。

少老朋友 | URL | 2008年09月15日(Mon)17:19 [EDIT]


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