コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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寄稿 「井上ひさしを偲んで」

[高木三男」

 井上ひさしが亡くなりました。
 9条の会のよびかけ人が次々と亡くなっていくのは残念です。比較するのはおかしなことですが、小田実や加藤周一のときよりも井上ひさしの方がぐっと身近に残念だと感じられます。
 生まれが私の出身の米沢市の隣町の小松町(現在は川西町)で、中学、高校と仙台にいましたたからわれらが郷里の人間という身近さでしょう。小松は私の母方の祖母の出身地でもあります。
 井上ひさしは、故郷小松町を大事にし、87年8月に蔵書10万冊を寄贈して遅筆堂文庫を開設、翌年8月には農業や社会問題を考える「生活者大学校」を開校し、ほぼ毎年開催し、郷里の人材育成に貢献しました。

 河北新報(宮城県でNo.1のシェアをもつ地方紙)は4/12付夕刊1面トップで井上ひさしの死去を報道しましたが、その記事の中で、「少年時代は生活困窮のため、母親と離れ15歳で仙台市内の児童養護施設『光ヶ丘天使園(現ラサールホーム)』に入り、東仙台中、仙台一高に通った」と報じています。同様のことは朝日新聞4/13付でも報じていますし、ネットの百科辞典『ウィキペディア』にも後述のように載っていますから、これが定説なのかもしれません。私も児童養護施設という言葉から連想して、家が貧しくて苦労したんだなぁとズーッと思っておりました。

 しかしこれはまちがいです。児童養護施設=生活困窮という短絡的な理解ですが、この間の経過については、本人が、『ボローニャ紀行』(2008年3月文芸春秋社、最近文庫になりました)のなかで大略次のように書いています。
 お母さんが岩手県一関市で井上組という飯場を経営していて、渡り者で、気が荒い飯場の男たちと一緒に住んでいたわけですが、お母さんは「これ以上、飯場に置いておくと、息子がぐれてしまう」と思い詰めて、一関カトリック教会のカナダ人神父に相談したところ、「仙台郊外に寄宿舎のような施設がある」と紹介されて、お母さんは、「イギリスやスイスなどにある、上流階級の子弟が行く寄宿学校と思い込んだ・・・」というものです。このように真相は生活困窮のためではなく母親の大いなる誤解によるものです。
 井上ひさし本人は飯場での荒くれ男たちとの暮らしは楽しかったといっており、また児童養護施設もはじめはがっかりしたが、「まもなくそこがとてもおもしろいところだとわかりました」と書いています。
 飯場や児童養護施設という底辺の人たちと付き合ったことが彼の基底になったと考えられます。
 母親というのは、なかなかの人物のようで、日刊スポーツ4/12付に黒柳徹子の談話として次のように紹介されています。
 「20数年前井上さんのお母さまにも(「徹子の部屋」に)出ていただいたことがありました。小説にも書いていらしたけど、本当に面白いお母さまで、物静かそうに見えるんですけど、当時はなかった女性用の生理用品を薬の油紙と藻で作って財をなしたり、奇想天外な生き方をしたお母さまでした。井上さんが面白いのはお母さまの影響を大きく受けているからだと思います。」

 井上ひさしの父親が左翼運動に加わっていたというのは今回の新聞報道で初めて知りました(4/13付の朝日社説)。『ウィキペディア』では、「井上靖と競った文学青年を父として山形県小松町に生まれる」と父が文学青年、それも井上靖と競った文学青年であったとしています。母からは奇想天外な、面白い発想、生き方を、父からは文学的素養を受け継いだということでしょうか。また『ウィキペディア』では「5歳で父と死別し、義父から虐待を受ける。その後義父に有り金を持ち逃げされ生活苦のため母はカトリック修道会ラサール会の孤児院にひさしを預ける」とあります。『ウィキペディア』は問題もあるといわれていますが、少なくとも生活苦のため孤児院へというのはまちがいということになります。
 『ボローニャ紀行』では、「わたしの生家は山形県南部の田舎町の薬局です。薬のほかに文房具やレコードも売っていました」とあり、当時は日独伊三国同盟が成り、ドイツイタリア景気のようなものが田舎へも押し寄せてきて、薬局に入荷するイタリアの本と、ベートーヴェンの交響楽とイタリア民謡のレコードを売れる前にたっぷり聴いていたので、「最初の素地ができたのではないか」と書いています。

 井上ひさしを身近に感じるもうひとつの理由は、井上ひさしの仙台一高での同級生で親友の憲法学者樋口陽一先生の存在です。樋口先生は私が在学中東北大の助教授で、71年に教授となり、80年に東大教授に転出されますが、在仙中は大学正門前の米ケ袋に住んでおりました。私が卒業後結婚し新居(貸家)を構えたのがたまたま先生の向かいの家です。また、先生が大学院生のとき、労働法の外尾健一先生(東北大生協およびみやぎ生協の元理事長)のゼミで教わっていたこともあって、外尾先生の還暦、古希の祝い等々の集まりには東京から参加されており、宴席での先生の挨拶や歌、ふるまい等を遠くの席から見聞きしておりました。だからといって先生が私を知っているわけではなく、私が一方的に知っていたということです。さらに、先生が一般向けに書かれた3冊の新書(『自由と国家』、『憲法と国家』(以上2冊は岩波新書)、『個人と国家』(集英社新書))を、私は勝手に「樋口陽一の3部作」と称して愛読していました。そんなこんなで、樋口陽一先生には親しみを持っておりましたが、その先生と井上ひさしとは高校時代からの親友の間柄ですから、井上ひさしをよけい身近に感じておりました。
 2000年秋に、宮城県生協連が創立30周年記念として宮城県に縁の深いこのお二人をお呼びし、「対談 憲法を語る」という記念フォーラムを開催しました。そのなかで、樋口陽一は井上ひさしについて次のように語っています。
 「井上さんは仙台一高在学中から映画という形でそのジャンル(芝居)に接しておられた。有名な話です。学校の近くにある、その頃の三番館に朝からちゃんと帽子をかぶって行ってたら、隣の席に座っていた女性に腕をつかまれたと。そうしたらそれが婦人警官で。(井上:青少年補導っていうやつです。) それで担任の先生に映画館から電話が入った。そうしたらその先生は『彼はそれが一番の勉強なんですから、どうぞご放免ください』ということでしたね。(井上:それは本当です。) ・・・仙台一高にはドイツ語クラスはあったがフランス語クラスというのはなかった。ところが学校の教科にはないフランス語を解する男がいる。朝から映画館に行って、ジュビアン・ディビビエだのマルセル・カルネだのを、字幕を見ないで理解しているらしい。(井上:それは嘘です)(場内笑い)」(「宮城県生協連創立30周年記念誌」より)

 大事な、大事な、惜しい人物をなくしました。深く哀悼の意を表します。

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