コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

同志・戦友、故山中洋さんを悼む

[加藤善正]
 2月5・6日の新潟・庄内地方は風雪警報通りの天候で、鶴岡市も地吹雪に荒れる狂っていた。この天候とはまったく逆な人物、誠実で温厚で優しい故山中洋さんの通夜・葬儀に出かけた。山中さんは一昨年春ごろから肺がんを患い、懸命な闘病生活を続けていたが、悪質ながん細胞は手術を拒み転移の末、1月30日ご家族の見守る中静かに68年の生涯を閉じられた。
 私とは1歳違いで50年もの生協人生の大半を「同志・戦友」として、何でも相談でき信頼出来る友人であっただけに、彼の死を悼みつつ心からの弔辞を読ませていただいた。山中さんは1941年、鶴岡市の元庄内藩の士族の家に生まれ、60年、創立5年後の鶴岡生協にアルバイターとして入協、大学受験をめざすが超過重労働と組合員とのふれあいに魅せられて、正式に生協で働く決意をし佐藤日出夫専務の下、創業期の鶴岡生協の鮮魚部門を確立させた。
47歳で常勤役員になり、88年には専務理事に就任し佐藤理事長の下、第1次・第2次共立社構想を推進し、とりわけ山形市の「くらしのセンター桜田」開設の全力を挙げた。その後、鶴岡での「こぴあ」開設など共立社の店舗事業の確立に尽力された。佐藤日出夫さんをはじめ、多くの先輩たちと組合員がの築いた家庭班を中心とした組合員組織を基盤とした「鶴岡生協路線」を忠実に実践した。

私はこの鶴岡生協のような生協運動を岩手県で建設したいと思い、69年の盛岡市民生協創立前から、常勤者の研修や私自身の勉強のためにも何度も鶴岡詣でを行い、山中さんとも長い間親交を深めさせていただいた。特に、92年からの「コープサンネット事業連合」結成以後は、毎月のように開かれた常任理事会など、居酒屋やホテルで、焼酎を飲みながら、組合員組織や常勤者組織の強化・活性化、事業と運動の統一的展開、地域社会への役割・ミッションのあり方、社会進歩に貢献する協同組合運動のあり方、などなど、お互いの考え方や実践の交流など、文字通り「同志・戦友」としての時間が過ぎていった。
彼は佐藤理事長の死後、共立社の理事長としても「共立社と事業連合とのあり方」について、悩みながらも「事業連合を発展させる上でも、あくまで組合員と各生協が主体であり、その主体性を強める事業連合が基本」という原点をいつも強調され、二人で確認しあった。
定年後は「庄内まちづくり協同組合・虹」を創立し、その理事長として現役のままで病に倒れた。彼はイタリア視察以後は「生協はロマンとソロバン」を両手に高く掲げ、ややもするとソロバンを重視する日本の生協運動に批判的な立場をとり、私の「あくまで協同組合としての生協」路線をいつも支持・賛同された。
彼の人間としての魅力も綴りたいが、これから仙台へ出張時間が迫り終わる。
彼を知る方々がご冥福をお祈りいただくことをお願いしたい。

スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。