コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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「ベルリンの壁」

[吉永紀明]
 東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁崩壊」から20年が経ち、11月9日にブランデンブルグ門の前で、欧米の要人やゴルバチョフ元大統領も出席して記念式典が開かれた。
 20年前の11月10日に、ベルリンの壁の上に立った若者がハンマーで壁を打ち砕く様子を見て感動したものだ。
 実は壁崩壊の前年に、関西の生協のメンバーと一緒に「ソ連」「東ドイツ」の生協を訪問した。
 ソ連はゴルバチョフ書記長が経済立て直しのために改革を進めている時期だった。
 私たちが訪問した国営市場と言っても名前ばかりで、肉が並ぶべき冷蔵ショーケースは空っぽで何も入っていなかった。酒屋さんの前ではウオッカを買い求める長い列が出来ていた。ホテルで食べた夕食にボルシチが出てきた。ソ連にきたらぜひ食べたいと思って期待をしていた料理だが、野菜が少しで、肉はいくらかき回しても見つからなかった。
 ビールは1本目は冷えた缶ビールだったが、2本目からは冷えていない暖かな缶ビールだった。電力事情だという。冷えたビールは2ドルで、温かなビールは1ドルでいいと言われた。

 東ドイツでは、生協の車でベルリン市内を案内してくれた。
 食料品もそれなりに揃っていたし、衣料品も数多く並んでいた。ただ人の流れがなく閑散としているのが印象的だった。厳しい経済状況といわれていたが、表面上は落ち着いて見えた。
 ブランデンブルグ門は100メートル以内に入ると射殺されると言われた。見張り所には銃を構えた兵士が見えた。この時は、まさか1年後にこの分厚い壁が崩壊するとは思いもよらなかった。
 ただ一つがっかりしたことがあった。
 出発前に当時の日本生協連の大谷常務理事から「東ドイツに行ったら、いろいろ気をつけたほうがいいよ」と言われていた。それが現実となった。
 到着した日の夕食は、郊外の湖のほとりに建つ古風で歴史を感じる素晴らしい建物に招待された。
 出された料理も酒もすばらしく、同行した生協の仲間はみんな喜んでいた。
 そして、皆が酔った勢いと雰囲気もあって「日本にぜひお越しください」と東ドイツ生協連の人に伝えた。
 ところが宴も終わりに近づいた頃、東ドイツの通訳の人が私のところにやってきて、一枚の紙を渡された。「何ですか?」と聞くと「今晩の料金です」と言う。「エーッ、これは招待ではないの?」と言うと「夕食会場にご案内しただけです」とそっけなく言われた。
 皆のところに戻って「実は・・・・」と話をすると、皆、サーッと酔いが覚めてしまった。
 「アーッ、これが大谷さんが言っていた気をつけろということか!」と理解した。
 これには後日談がある。
 帰国してから、大谷常務に報告すると「だから気をつけろと言ったのに。しかし、日本に来てくださいと言うのは招待したことになり、相手はその気になっているものと思う。関西の生協で受け入れないと国際問題になりかねないぞ」と脅かされて、仕方なく招待することになった。
 ところが、翌年ベルリンの壁が崩壊して、東西ドイツが統一された。代表団の来日は難しいのではないかと多少期待する気持ちもあったが、予定通り代表団が来日した。
 一行の一人が大きなショルダーバッグを重そうに担いでいた。何が入っているのか気にかかった。
 日本生協連に着いて、そのバッグの中から石ころを取り出して、役員に配り始めた。私も1個もらった。5センチ四方くらいのコンクリートの破片だった。
「ベルリンの壁です」と言われた。
 当時崩壊したベルリンの壁の破片が珍しがられていたので、代表団もお土産にとおもったのかもしれない。
 ただ、西側の壁はペンキなどで絵や文字が描かれていて、破片にもその色が残っているが、東側の壁には何もかかれていない。だからもらった破片は、そこらの工事現場に落ちているコンクリート片と変わらず、「これはベルリンの壁の石だよ」と言われても誰も信用しないのでは・・・と代表団が帰ってから誰もが思ったのではないか。
「ベルリンの壁崩壊20年」の報を聞いて、懐かしく思い出した一事だった。

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