コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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生協には夢があった  「みらいは我らのものな里」

「晴3」
生協には夢があった。 
古来 先駆者たちは、協同の夢を掲げて戦ってきた。そして世界に、日本にひろがっていった。

 未来は今すぐ実現が出来ない事を十分認識した上で、なおかつ「未来は必ずや我らのものである」という不動の立場を固めることが、地道な不屈の努力を生み出し」(福武直  賀川豊彦に寄せて)て行ったのだろうか。

 戦争にひた走る暗黒の時代に「みらいは我らのものなり」といってのけ、生協人を鼓舞した賀川豊彦がいた。それゆえに賀川は日本のみならず世界の協同組合の先駆者になりえた。

1935年生協は風前のともし火だった。 そんな中「東京学生消費組合」の10周年記念にさいして賀川豊彦は「未来は我らのものな」と言う色紙をおくり次代への確信を表明し人間をあやめる体制は長くは続かないないコトを見通していた。。事実そうなり生協はよみがえった。

この色紙は官憲の目を逃れるため当時の専務理事山岸晟氏(故人)によってた家の縁の下に隠されたことで東京大空襲で燃えずにのこった。

後年山岸晟氏(当時 印刷会社「三秀舎』社長)が杖を引きながら東京中野の大学生協連会館を訪ねて見えられ往時の経緯をかたりながら寄贈された。 歴史を受け継ぐ重みに受け取る私の手はふるえた。
 後に福武会長はこの色紙に一文をしたためてくださった。この色紙の意味を十二分に教える味わいふかい名文であった。自筆のコピーは今も私の手元にある。
日生協会館ロビーの賀川豊彦像にこの色紙のコピーが刻み込まれているのをご存知だろうか。未来永劫生協人はその意味を噛み締めていくことだろう。そうせつに願う。

ところで「未来は我らのものな里」の「り」はどうして「里」なのかいらべることもなく今日まで来てしまった。

その後私は千葉の地域生協に移った・
千葉市民生協の創設者の故田仲善一と賀川の「みらいは我らのものなり」を元に夢をかたりあった。彼がすむアパートに1年間一人間借りし現場を見てきては毎晩語り合った。その後彼はなくなるのだが肝炎を患っていた彼は「いのち」に純粋に向き合っていた。テーマは「未来の子供たち」になっていった。

私たちは夢見る夢でなく「日々の営みを糧に目覚めていく気づきの夢」に置き換えてみた。「私も一言」「班で聞いたこと」「声にこたえて」など人を「つなぐ」職員や組合員の喜ぶ姿に啓発され、この先に期待を込めていった。組合員は4万弱からはじまった。それが時代の変化の中でどうなっていくのか。その時掲げた夢は叶っていっただろうか。私は64歳で現役を離れたがまじめな格闘が今も続いているに違いない。

あれから二〇年以上経た今日、翻って生協を取り巻く日本は途方もない混迷の時代を迎えている。金融崩壊は人間を粗末に操作する利益効率至上主義の管理やテクノロジー。実生活や現場から離れた管理。理念を棚上げにした精神のないリーダーシップ」のいきつく先だった。失われたものは大きすぎ格差排除の犠牲は傷口を広げ始めた。日本社会が人間を粗末に操作する利益効率至上主義の延長線上に進むなら、混迷はひどくなる一方であり出口のない不確実な未来があるのみであろう。いわゆる政治屋や子役人や専門家の目先の小手指では全く解決はしない。アメリカ流、小泉流資本主義をきっぱり否定し「人格性」を取り戻す協同の道以外に活路はあり得ない。いかに困難があろうとも人間性、人間味のある社会システムを取り戻し構築していく必要がある。協同を価値とする社会構築の可能性のある時代を迎えたと私には思える。生協の新たな出番。人は皆温もりのある関係を求め始めている。そんななか協同組合がどんな構想力と知性を集め実践するのか、協同組合の歴史をかけた時代と認識し、協同の価値をひたすら追求している仲間に拍手を送りたい。後期高齢者に近づきつつある私は拍手を送るだけに過ぎないのだけれど。

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