コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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続き  8月15日だから

「晴3」 敗戦直後の自宅付近

○程なく米軍が進駐してきました。先頭に機関銃をすえたジープが走り十数台のジープ、トラックが家の前を過ぎていきました。走りながら空砲も撃ったと後で聞きました。占領開始の威嚇を狙ったのだと思います。
○近くの仙台駅の半分はペンキが塗られたのか瀟洒な米兵専用駅になり、金網越しに覗き見ることができました。列車は冷暖房つき。日本の列車は窓から体を出すほどの込み具合。その差は歴然、敗戦国の姿でした。米占領軍兵舎が置かれた榴ヶ岡(旧陸軍四連隊。ここには2等兵の兄がいて母と慰問に行ったことがある。殴られて顔が無残に膨れていた。ここからガタルカナルやアリューウシャンや北支さらにビルマなどに派遣され転戦し多くが死んだ)向かう道路はMP憲兵が厳重な警護、交通整理に当たっていました。駅は戦災孤児や、家を焼け出された人たちの住処になっていました。線路下のガードも家を焼け出された人たちの住処になり、その状態がしばらく続いていました。

○米軍は私の自宅前の東六番丁通りに沿って常盤木丁にある遊郭地に向かって大型トラックをゆっくり走らせ、トラックをも買春用にしていました。トラックからパンパンといわれた売春婦が降り立つのを何度も見ました。自宅そばの教会の庭はパンパンといわれた売春婦と米兵のあられもない場になりました。私の遊び場だった教会の庭に行くと風船が投げられ追い払われました。風船はコンドームとは知らない子供たちの宝物になりました。

○当然私は家の外に出ることが厳禁となりました。米兵たちがジープから子供たちにチュウインガムを撒き始めました。私は門の隙間から道路をそっとのぞいただけだったのに、血相を変えた父から罰として蔵に閉じ込められてしまいました。真っ暗な蔵の中で泣きじゃくった覚えがあります。門を開けて米兵が一人で入ってきたこともありました。女性を探しにきたのです。裏通りの各地に売春宿ができはじめ日本人の円タク斡旋屋が間違ってつれてきたということです。親は不在で小学生2人が棍棒と擂り粉木を持ってきて姉を守ろうとしました。大人が誰もいないと気づくと出て行きました。姉はとっさに隠れたようです。

○待っていたのは空腹でした。学校ではクラスで弁当持参は70人中2~3人だけ、一つの弁当にみんなが群がったようです。私は低学年だったので家に帰ってから食べました。母が着物など売って芋などに変えていたようです。よくかい出しにいっていました。学校では米軍放出の腐ったにおいのするミルクがアルミの蓋の上に注がれました。私は吐き気を我慢して飲む場合と捨てるときがありました。先生の指示で小学5,6年生は食べられる雑草を摘んで登校しました。雑草いりどんぐり粉パンが配給されました。私はとても食べられず捨てたのでひどくしかられたことがあります。

○日系二世の米兵が教室を廻り戦争に関する掲示物をはがしていきました。教科書には墨が塗られました。校舎は焼け出された女学校も使うようになり2部授業になりました。(学制が変わってからは3部授業になりました)。この女学校には姉も通っていて同級生には迫りくる火に追われて逃げ場を失って広瀬川に飛び込みなくなった友人、包帯だらけになってくるもの、先生も火傷をおっていたといいます。

○敗戦の混乱は人々の心を蝕んでいきました。私の通学用ののズック靴も傘も学校の帰りにはしばしばなくなり、やむなく私ははだしで学校に通うこともありました。大人が学校に入ってきて盗むということでした。私の名前がハルオのせいか、ハローハローチュインガムといって米兵を追いかけていた子供たちに、私はチュウインガムとはやし立てられました。私にとって屈辱のあだ名でしたが当時の世相を反映していました。

62年ぶりに 元寺小路 岩本外科病院跡地に立って

 駅に程近い元寺小路に戦前岩本外科病院がありました。私は赤ちゃんのときに手がくるぶしのようになるおおやけどをしていました。国民学校入学の前にくるぶしを切開して指を取り出す手術をしていました。長じてから、病院と周辺が7月10日集中的な焼夷弾を浴びたと聞いた事があります。ベッドの上の患者と付き添いのベッドの下の親を不発弾が貫通するなど 周りは阿鼻きゅうかんだったと伝え聞きました。70歳になった昨年私はその前に妻と立ちました。もう岩本病院はありませんでした。又確か近くにカソリック教会があり、外国人たちが隔離収容され、中庭をぐるぐる引き廻されていた記憶がかすかに浮かんできました。私を執刀してくれた医者や看護士はどうだったのか。私が手術した病室は?思いはぐるぐる廻りました。教会にいた人は?きっと逃げ切ったに違いない。でももしかして空襲の当日の昼この病院に程近い斉藤報恩館の近くを通ったときに見た焼死体の中におられたのではないか。熱いものがこみ上げてきました。

追記
 戦争はすべて狂気です。すべてを異常にします

 暑い日私は父に連れられて家から広瀬川を越えた川内まで歩いたことを思い出します。行けども、行けども焼け野原。よくもこんなに燃えたものだ。日本の家屋は木と紙でできていることに目をつけて大量の焼夷弾を落としゼラチン状油脂が体や家屋に付着し火災を起こし多くの市民を殺戮しました。広範囲の周囲に火災を起こしその中にいるの多くの人々の逃げ道をふさぎました。市民生活を破壊し尽くすような空爆は東京空襲をはじめ日本各地の都市空爆がそうだった。仙台も、千葉市も。戦後日本政府から何故か高位の勲章を授与された米司令官ルメイ(ヨーロッパ戦線で武勲を立てて太平洋戦線に回されたきたといわれる)の立てた戦略だったのは今では明らかです。日本の真珠湾奇襲攻撃、重慶市民への無差別爆撃 南京虐殺など さらに東南アジア諸国への日本の侵略、非道な加害が先行したことに続く日本の都市への攻撃でした。

 しかし、日本の敗戦が既に明確となったときに戦後世界の覇権になるためにアメリカはヒロシマ、ナガサキに原爆を投下し21万人(これまで38万人)を殺傷しました。今なお23万人が放射能後遺症で苦しんでいます。その1ヶ月前に仙台空襲で1000名を超える命が散りました。

 一方敗北が明白にもかかわらず国体護持のため”もう一戦交えてから”という聖断で戦争を引き伸ばし3月10日の東京大空襲での10万人の犠牲者を始め全国各地の都市への爆撃を許してしまいました。市民の犠牲者は沖縄を含め数十万人をこえ都合330万人の犠牲者を持って戦争は終わりました。

日本軍の手によるアジアの2000万とも言われる犠牲者一人一人にそれぞれの生活と人生があり親がおり子供がおり友達がいました。その犠牲の上に世界に向けた平和憲法が生まれました。私の学び舎だった川内も伊達の武家屋敷から 第2師団司令部、そして接収された米軍キャンプにかわり米軍基地から「初めて武器よさらば」した平和な大学キャンバスになりました。63年間戦争に直接手を染めなかった日本。尊い犠牲の上に私も平和のもとに生きることができました。
しかし戦争責任をあいまいにしてきた日本。戦争のむごさを忘却していく日本。軍事費が膨らむ日本。海外で武器を使うことを合法化しようとする日本。今を生きるものの「戦前」責任が問われそうです。もろくなった平和を崩さないように。崩れぬ平和のために。孫子のために。
(~22歳在仙台  現在71歳 在千葉  高橋晴雄) 他に書いたものを縮小しましたモノです

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