コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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8月15日だから 

「晴3」   私の戦争体験  1945年7月10日、仙台空襲 米軍進駐

戦争で辛酸をなめた人々が国民の多数者だったころ、幼少時の私の戦争体験などは取るに足らないものと思っていました。事実辛酸をなめた多くの方と比べるべきもないのですが、あえてつたない体験を述ることにしたい。なぜならいまや戦争を実感し得ない世代が圧倒的な多数者になりました。戦争のむごさを人々が忘れるとき戦争(準備)への道を為政者は容易に進めるからです。
爆撃下、7歳時の私の記憶は朦朧としていて断片的なのですが、そのいくつかの場面(シーン)は強烈によみがえってきます。 
1945年7月9日も空襲警戒警報があり、それがやっと解除され家族はほっとしたようです。そんな矢先、真夜中の0時を機に134機による突然の爆弾、焼夷弾投下が始まり2時間続き1060人の犠牲者と市街地の大半を焼け野原にしました。

私の記憶は焼夷弾の集束弾なのか、高性能爆弾投下なのか地響を伴った大音響が起こり柱にしがみつき離れなくなったときから始まります。玄関先3mくらいのところに掘られた防空壕に引きずるように抱きかかえられやっとたどりつきました。しかし外にいた父はこのままでは危ないと思ったのか、母とわたしと2人の兄姉を外に出し、にげるように促しました。 
外に出ると、空は焼夷弾と照明弾で真っ赤に染まり、真昼のように明るく、サーチライトが米機を追っていました。私の家は集中砲撃にあった仙台駅周辺から程近い東六番丁小学校のそばにありました。100m先に火の手が上がったので反対方向に逃げることになりました 。
(避難時のシーン)水槽で水をかぶせられ、B29の波状攻撃を避けるように通り沿いの軒先に身を潜め、収まると又歩き始めるのです。見ると各家から飛び出して来た人たちで一杯で、混雑の中ではぐれないようにしっかり母と手をつなぎあっていました。やっと東照宮の境内林の草むらに身を隠しました。(中略)醤油瓶1本だけもって、あるいはなべのの蓋だけもって、ある者は靴片方だけ持ちはだしで逃げてきていました。しばらくして、爆撃が収まり、家に戻ろうとすると 不発弾があるとか、燃えているところがあるという情報でかなり迂回してやっと家に戻ったようです。(略) 

10日 昼には疎開地へ 見渡す限りの焼け野原 焼死体を見ながら

 朝、田舎から心配した叔父が、木炭で走るトラックで県庁付近まで救援に駆けつけ、焼けくすぶる街なかを通って我が家にやってきました。直ちに疎開だ。ここに居ては危ない、まず小学生2人、〔私と兄〕を連れて父母とわかれて家を出るのですが、トラックにたどり着くまでの道筋は、今にして思えば地獄絵でした。花京院をへて市電通りに出たとき、姉が通う女学校も含め見渡す限りの焼け野原でした。市役所までの両側は焼けくすぶっていてところによって熱風で息苦しく歩くのが困難でした。戦後できたレジャーセンターのそば?を通ったとき重なった焼死体が焼け跡に無造作に並べてありました。確か県庁側には筵をかぶった焼死体もありました。長兄がちょっと前まで入院していた県庁脇の第1陸軍病院(衛戍病院)は既に丸焼け、東2番丁の市立病院、そして1番丁の三越デパートと目指す市役所庁舎以外みんな燃えつくし、まわりはくすぶっておりました。市役所方面から県庁裏手を通りますがここも焼けていました。昨夜からの恐怖の連続にあったのか7歳児は何故か長ずるまでそのシーンはうろ覚えのようになっていました。これを書いているうちに浮かんできました。
(次のシーン)はこうです。トラックの周りには、乗ろうとする人たちでいっぱいでした。既に荷台は人や積荷で山のようになっていました。やっと積荷の上によじ登って乗ることができました。北仙台から七北田街道を通り、王城寺が原から古川に向かって砂利道を走るのですがぐっすり眠ってしまった私は途中走るトラックの荷台から何度も道に振り落ちそうになり、上と後ろから、横から首筋や手を握る大人たちに救われたそうです、が途中は一切記憶にありません。走り始めたとき、乗ろうとする人たちを置いてきぼりにしてクラクションを鳴らして走ったことだけは記憶に残ります。途中歩く逃難するひとが延々と続きますがトラックはそんな人々を蹴散らすようにして走ったといいます。
8月15日
 天皇の玉音〔敗戦〕放送は縁故疎開先のおじの家で聞きました。みんなは正座していました。私は遠巻きに聞いていました。母のおじが「負けたのだ、負けたのだ」と大声を上げました。2人の息子を兵隊にとられたおばは黙っていました。私は何がなんだか全く理解はできませんでした。ただ親が迎えに来るぞという思いにいたったのかは明確ではないのですが何故か明るい気持ちでした。8月20日過ぎにやっと母がやってきました。それまで仙台に帰るのは危ない。米軍がやってきて皆殺しになるからと、親戚一同が私たち兄弟を帰すまいとしていたようです。母は死ぬときは家族一緒だといいはり、反対を押し切って連れ戻すことになったと後で聞きました。別れるとき親戚たちが泣いていたのも進駐軍に皆殺しになると本気で思っていたからでしょうか。軽便〔ミニ機関車列車〕で4時間近く揺られて帰仙したのですが家では兄姉全員が待って、手をつないで輪になって座敷の中をくるくる走り廻ったこと、今も平和のありがたさを噛み締める私の映像になっています  (続く)

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