コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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生協の反核平和の取り組みー歴史断片3

「斎藤嘉璋」

それは原水爆実験反対のお母さんたちの声から始まった

 昨日、25日の北朝鮮の核実験のニュースには驚いた。核大国アメリカのオバマ大統領が「核兵器のない世界を」と発言し、国際的な世論、政治の動向が変化し始めたかと期待されているおりの挑発的暴挙である。
 このような驚き、怒りは原水爆の実験が報道されるたびに被爆者をはじめとする日本の国民にわきあがった。なかでも、1954年3月1日、アメリカのビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸など日本の漁船が被爆したとの報道は3度まで日本国民が犠牲者になったことへのショックと怒りを与えた。
 久保山さんなど漁民の被爆への怒りとあわせ焼津港に水揚げされたマグロの汚染も国民、なかでも漁民と消費者にショックを与えた。東京の杉並区での消費者・お母さんたちと魚屋さんたちの話し合いのなかで、なんとしてもアメリカの原水爆の実験を中止させなくてはならないとの声があがった。
 その杉並の婦人たちの取り組みには当時の生協の組合員、お母さんたちが多く参加していた。

 生協ではその2年前から杉並区生協協議会婦人部が杉並婦人団体連絡会などと共同で「原爆写真展」などに取り組み、1952年の国際協同組合デーには「ICA加入の33カ国の協同組合に原爆写真を送ろう」という提案などもしていた。杉並だけでなく3月20日に開催された目黒区生協協議会の「講演と映画の会」のスローガンのトップには「原爆を禁止しよう」が掲げられていた。
 署名運動には当時の生協の婦人部(家庭会)の組合員が率先して取り組んだが、そこには生協に結集する生協組合員、お母さんたちの“汚染マグロはご免だ”“原爆から命と暮らしを守ろう”という熱い思い、反核平和活動への原点があった。9月には東京都生協連婦人部が杉並区民会館で「永遠なる平和を」等の上映会をもつなど運動は全都的に広がった。杉並のお母さんたちを中心に始まった署名運動は全都に、全国に、労働者や学生にと広がり、8月には原水爆禁止署名運動全国協議会が結成された。
 その署名運動から翌年8月、第1回原水爆禁止世界大会が実現し、原水爆禁止日本協議会が結成されるなど反核平和の運動が大きく展開されることになった。

 日生協は54年のICA大会に原水爆反対の決議を呼びかけ、日本原水協が結成されるとただちに加入した。しかし、このころの日本の生協運動は戦後の高揚期から大きく後退し、あらたに炭鉱生協や地域勤労者生協の誕生を見るが、その基盤はよわく、地域での諸運動を継続的に取り組む力は脆弱だった。反核平和の取り組みも東京の例のように婦人リーダー(当時の婦人部や家庭会のリーダー)によるもので生協全体の取り組みとしては弱かった。日本の生協が反核平和の運動を本格的に展開するのは70年代に入ってからである。

 1960年代の初頭、私は協同組合短期大学を会場に開催される日生協の「生協学校」の事務局として、婦人たちの署名運動を推進し日本原水協の代表だった安井郁先生を講師としてお迎えに行き、先生に署名運動から始まった原水禁運動のことを話してもらったことを思い出す。残念ながらそのころの講演の資料などは日生協にもない。ここに書いた歴史断片は「東京の生協運動史」(1983年刊。私が東京都生協連在勤当時、執筆・編纂したもの)によるが、さらに正確に原資料にあたるとなると今は自信がない。

付記―高橋晴さんが「平和とよりよい生活のために」に関してコメントを掲載したが、国際学連のスローガンと日生協創立総会への提案の内容が私の記事と違っている。これに関しては日生協創立総会は原資料と証人ははっきりしているが、国際学連のスローガンの原資料ははっきりしていないので、現在調査中である。また、調べて私の記述を正確なものにしたい。

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