コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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斎藤さんの「よりよき生活と平和を巡って」を読みました。刺激を受けて

[晴3]
斎藤さんの「よりよき生活と平和を巡って」を読みました。

私はかって責任者として東大生協25年史編集 執筆に関わりましたが  その由来はスローガンをつくった当時「国際学連」が「平和とよりよき生活のために」を掲げていて、学生役員だった飯尾要氏(新聞記者を経て生協職員のち大学教員)が 「 生協は生活だから逆転させて生活を先に出し「よりよき生活と平和のために」を日生協に提案したと聞いています。戦争の灰燼から生まれた戦後生協にとって大切なことでした。

さてそも「平和が先か」「生活が先か」ということですが  経緯や由来はひとまずおくとして生命そのものを消滅させてしまっては 生活も人生も 信条も思想も競い合う場も失う訳で 平和はすべての前提なことは自明なことです。これが原則です。
現在一発で広島型の千倍の威力を持つ27000発の核兵器があり 核兵器を呼び込む戦争の火種は消えず  米国の新自由主義と軍拡に追随している日本にあって 、また命を脅かす地球環境破壊(戦争と戦争経済がもたらす地球環境破壊は環境破壊のさいたるもの)がある中で今を生きる すべての個人、あらゆる団体が自らの立場から「命」を守るために積極的行動やコミットメントがなければ人類の未来は失われることになる時代です。

そのことを前提に、私は生協にあってはこれまで掲げてきた「生活と平和のために」がいいと考えています。

その積極的な意味は例えば教育系団体が「教育から平和にアプローチする」ことで平和を掲げる根拠をもつようになる。あるいは福祉系団体が「福祉から平和にアプローチする」ことで広がりを作るのと同じように生協は商品を中心に生活を守るために加入した組合員にたいし、生活と平和の関連を「事実にもとずく話し合い」や「場の提供」によって気付く場になっていく。

1部から「まどろっかしい」と言われかねないのですが(事実善意だが平和唯一論的主張によってみんなから浮き生協の活動をむしろ弱めてしまった生協もあった)。しかし生協は政治団体でも平和団体でもなく「生活文化」を目的に成立しています。

「生活」も「教育」も「福祉」も「文化」「医療」もいのちを維持し育み慈しむ点で「いのち」で結ばれています
この強みを生かし「生活」「教育」「福祉」「文化」「環境」「医療」「体育」などにかかわる団体や個人が垣根を越えて「地域」や「全国規模」で自の個性や性格に相応しい特質を生かして「平和」に取り組む広く包摂力をもった統一戦線が作れるのではないか。いま求められているのはこれではないでしょうか。9条の会はそれを具現しつつ発展しています。

同時に積極的行動やコミットが後退ないし薄れてきている一面があり私は皆さんと共に憂慮しています。「生活」「文化」「環境」「体育」などの団体に「私のところは○○○なので平和にはかかわりません」というところがあります。NPO法人のなかにさえ政治は禁じられているのでといって「平和」を忌避する。生協はそうでははないと思いますが。

また平和を口にするとことは特殊視されるからと控えてしまう。平和憲法を忌避する改憲勢力によってもたらされた風潮に負けています。国民の大半が戦争を実感しえなくなった背景もあります。しかし何よりも  派遣切りに示される雇用情勢の悪化によって「その日の生活」のおわれた1000万人を超える貧困層、また中間階層の崩かいの中で「平和どころでない」精神状態に追い込まれています。

そういう中で「平和」の緊急性が増しています。従って憲法九条と二五条を結びつけ、また単に活動の大きさではなくそれぞれができることを可能な限り着実に地域で実行していく。そのためにも「地域」「生活当事者」「共同性」を生命にとして発展してきた生協が生協の目的と性格にそって「生活」を第一義ににしてリダーシップを持って「平和」にアプローチした方がいいと思ったわけです。
それが平和が先とかんがえ実践してきた中林さんはじめ先達に真にこたえることになるのではないか。斎藤さんのプログで刺激を受け思ったことです。また教えてください。

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