コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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「賀川豊彦先生の想い出」          寄稿 岡 本 好 廣

賀川豊彦先生の生誕120年に当たる昨年、協同組合懇話会の主催により新橋の共栄火災本社の会議室で講演を行った。以下はその要約である。

広範な運動の指導者
私が1956年に日本生協連に入った時の会長が賀川先生である。賀川先生を知っている先輩は殆ど亡くなり、直接接した人は少なくなってしまった。幸いその謦咳に触れる機会に恵まれた1人として、生誕120年に際して人間賀川の一端を紹介することにしたい。賀川先生は多能、多芸の人であった。「天は二物を与えず」というが、先生は三物も四物もこなされた。小説、評論、詩といった文芸作品の他、哲学、自然科学の論文も多数あり、それらは『賀川豊彦全集』24巻に収められている。代表作『死線を越えて』は先生の自伝小説で、前、中、後編併せて420万部が売れた戦前の超ベストセラーである。その印税は全て救貧活動や労働運動、農民運動、生協運動、平和運動に投じられた。

賀川先生が生協運動を始められるきっかけは、貧しい労働者を救うためのセツルメント運動である。神戸の新川の貧民街に施設を作って住み込み、救貧活動に身を挺して取り組まれた。その後労働運動に転じて、歴史に残る三菱造船、川崎造船のストライキを指導し、警察に検挙されている。この後ストライキに敗れた労働者に勧めて神戸消費組合を結成し、その後当時の住吉村での灘購買組合設立の指導をされた。両者は後に合併して灘神戸生協となり、現在のコープこうべに発展している。大学生協の前身である学生消費組合の設立にも努力された。医療生協では新渡戸稲造先生とともに東京医療利用組合を設立された。1951年に日生協が設立されると、初代会長に就任され、1960年に亡くなられるまで務められた。

私が接した賀川先生
賀川豊彦を知る人は先生は偉人だが、聖人ではないと云っている。私の接した賀川先生もそのようであった。堅苦しいところがなくて、いつも笑顔を絶やさない好々爺であった。最初にお宅に伺ったのは1957年の春と記憶しているが、お願いしてあった原稿を戴くのが目的であった。自ら玄関に出て来られた先生は、「岡本君、君のことは聞いていてよく知っているよ」と云われて、初対面の若造を感激させた。奥さんのはる夫人(晩年東京の名誉都民に推薦された)が紅茶とビスケット3枚を出して下さったが、これはいつ行っても変わらなかった。賀川先生は「岡本君、君は酒を飲むかね?」と聞かれた。その頃は飲まなかったので、そう答えると「酒は気違い水だから呑んではいけないよ」と云われた。後に関西支所に転勤したら、同じことを灘神戸生協の次家専務に聞かれたので、同様に答えたら「灘に来てそれでは付き合いにならん、鍛えてやるから飲めるようになれ」と云われた。飲まされている内にめきめき強くなり、お陰で付き合いも広くなった。言い訳が許されるなら「先生私の酒は“気違い水”ではなく、“付き合い水”です」と云いたいものである。その後使い走りで何度なくお宅へ伺ったが、その都度「君は今どんな本を読んでいるか」とお尋ねになった。私が答えると先生は興味深そうに聞いておられ、質問された。そして自分が今読んでいる本について説明された。殆どが自然科学や哲学の本で、云われてもよく理解できなかったが、若い職員を分け隔てなく扱われるのが嬉しかった。何時行っても「岡本君よく来たね、上がり給え」と温かい手で握手して下さった。先生と握手した人は異口同音に手のひらが柔らかく、温かったと云っている。

アメリカで高い評価の賀川先生
評論家の大宅壮一はアメリカで日本人の人気投票をやったら、戦前戦後を通じて賀川豊彦が断然1位になるはずだと云ったことがある。私も1967年以降頻繁にアメリカへ行く機会があったが、その都度このことを実感した。先生は戦前と戦後6回に亘ってアメリカに招かれて全土で講演をしている。特に有名なのは1935年から36年にかけての半年に及ぶ講演旅行である。この時は全米140の都市で、日に3度併せて500回の講演を行い、100万人以上の人が先生の話を聴いたという。世界大恐慌の後で先生は今こそ全米に協同組合を作り、市民が自らの力で生活を護るようにすべきだと呼びかけたのである。
先生は同時期にプリンストン大学とプリンストン神学校で学んだ秀才であった。『死線を越えて』は《Beyond Deathline》と《Before the Dawn》のタイトルで2種類の英語版が出ている。これらを読んだアメリカの人たちが人口の僅か1%しかキリスト教徒がいない日本で、懸命に伝道をしているドクターカガワがやって来た、是非話を聴こうと集まったのである。この時話を聴いた人々がその後各地で生協を設立した。私はサンフランシスコに隣接したカリフォルニア大学バークレー校の近くのバークレー生協で、わが生協はドクターカガワの唱道によってできたと聞かされた。北にあるスタンフォード大学の学園都市パロアルトでも、生協の人たちに同じことを云われた。これらの生協からドクターカガワに恩返しがしたいとの申し出があり、1959年に日生協の福田さんと大谷さん(当時東京都連)のアメリカ留学が実現した。私も日本生協連の指導担当の常務理事になった時に、バークレー、パロアルト両生協の協力で「アメリカ流通セミナー」を開催することになり、毎年全国の生協役職員を引率して現地に行った。このセミナーは1980年に開催して以後30年近く経った今も続いている。ロスアンゼルスにはカガワ・ストリートと名付けられた道路があり、ワシントン・カセドラルには東洋人でただ1人、賀川先生の胸像が置かれている。その頃アメリカ各地に賀川先生の後援会ができて多額の募金を送ってきた。1927年にはコロンビア大学大学院を出たばかりのミス・ヘレン・タッピングという女性を国際秘書として東京に駐在させて、賀川先生の国際活動を支援させた。彼女は戦時中迫害を受けながらも日本を離れず、帰国したのは先生が亡くなった後であった。

[賀川豊彦献身100年]を迎えて
1935年のアメリカでの講演に因んだエピソードがある。日本生協連第3代会長石黒武重さんは農林省の役人として、当時日米貿易摩擦の焦点であった生糸輸出問題を解決するためニューヨークに在勤して居られた。その時に賀川先生の講演を聴いたとのことである。聴衆が3000人以上も集まって大変な熱気だったが、話される英語がよく聴き取れない。隣のアメリカ人に尋ねたら、「自分もよく理解できないが、ドクターカガワの話を聴けるだけで有難い」とのことだったと云う。賀川先生は雄弁家として聞こえていたが、日本語でも独特の抑揚があってよく判らないところがあった。長女の富沢千代子さんによると、新川のスラム界で暴漢に殴られて前歯を失って以後話されるときに息が漏れ、英語の発音に影響しているとのことであった。因みに富沢千代子さんは東京医療生協の院長にもなられた女医さんで、私も何度か診ていただいたことがある。[Cooperation is Fire]と叫ばれ、「運動なき協同組合は亡びる」と諭された賀川先生の教えに恥じない生協運動をどう進めるか、[賀川豊彦献身100年]を迎える今年、改めて考えてみなければならないと思う。

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