コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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ヤオコーの躍進の原動力 ~一つひとつの店を地域一番にしていく「理念と戦略」

[大友弘巳]

スーパーマーケットチェーンの雄となった「ヤオコー」
 「しまむらとヤオコー」という本を読んで、特にヤオコーの躍進ぶりと、それをもたらした原動力となっている「理念と戦略」の明快さと実効性に衝撃を受けました。
 生協もヤオコーも、1970年まではどちらも限られた地域内での小さな存在でしたが、その後の40年間の間に互いに発展し、今日に至った歴史を持っています。 これまでも競合関係はありましたし、今や埼玉県内のいたるところでコープの店舗と競合する存在となっていて、今後もさいたまコープの供給事業に対して大きな影響を及ぼす可能性が高いヤオコーのことは、OBにとっても大変気にかかります。
 70年代と80年代は、生協の方が先行して発展していた時期で、1990年には、さいたまコープの供給高は720億円(店舗は50店舗で320億円)に対し、ヤオコーは25店舗で売上高400億円ほどでした。

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「福井発の挑戦」の読後感想―福祉事業の視点から

「寄稿」

 「『福井発の挑戦』を読んで」の記事に対するご感想だけでなく、「福井発の挑戦」そのものを読んでご感想をお寄せくださる方も出てきました。
 日生協勤務時代、福祉事業を通して福井県民生協と触れ合った経験をお持ちの佐川まことさんからお寄せいただいたご感想を、「寄稿」として掲載させていただきます。  管理人[少老朋友]

[佐川まこと]

 私が福井県民生協の福祉事業の取組に注目し、是非、全国に紹介しょうと考えたのは、私が日生協の福祉事業推進部にいた2005~06年当時であった。当時、日生協としても「日本の生協の2010年ビジョン」で「第3の事業として福祉事業を確立する」と05年の総会で決定し、それをもとに福祉ビジョンと中期計画作成のためいろいろ論議をしている時であった。福祉事業の取組の意義や理念は生協本来の在り方からの論理的帰結として説明がつくのであるが、それを実際に生協の事業として本格的に展開している生協は、当時は全国で1割にも満たない状況であった。
 そうした中で、福井県民生協の福祉事業は、組合員の要求に基づき、地域のニーズの調査・分析を踏まえて、原則的な取組を行っていた。残念ながらまだ福祉事業だけで見ると当時は赤字であったが、それはまだ福祉事業を展開して間もない時期なので、やむ追えないことであった。
 私が第1に注目したのは福祉事業を、既存の生協の店舗や共同の購入事業や組織活動としての組合員活動と組み合わせながら、全体の事業・活動の中に位置づけて取り組んでいることであった。店舗に隣接して、子育てやデイサービス事業が展開されており、当時としてはまだ多くの生協で福祉事業自体の位置付けを巡って論議している状況で、そうした取組は、全国的には先進的な取組であった。 本書の中で「事業ネットワーク」という言葉で表現されているものである。
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福島県の被災地を訪ねて

[大友弘巳]

東日本大震災が起きてから丁度5ヶ月目の8月11日(木)、福島県の被災地とコープふくしまを訪問する機会が得られました。
OBの会の仲間と事務局合わせて4人、さいたまコープの現役の職員2人がコープふくしまと被災地へ訪問するというので合流して、合計6人で一緒に出かけました。
コープふくしまの宍戸常務にご足労いたいたお陰で、JR福島駅前から車で出発して、飯舘村、南相馬市、相馬市、伊達市、福島市と巡り、被災地の現状を観るだけではなく、仮設住宅の内部や除染作業の現場、コープふくしまの宅配事業の相双支部や二つの店舗などを見学することができ、1日で多くのことを見聞することができました。
飯舘村は、福島市から川俣町を経て、南相馬市へ向かう県道12号線の途中の高原に位置しており、県道を走る車はそれなりに多く、一見すると、普通の穏やかな田園風景に包まれているのですが、よく観ると、道ばたの店舗などはすべて閉鎖・休業しており、田畑はすべて雑草が生い茂ったままで、人影もなく、眠ったままの村になっています。
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  井上ひさし「言葉よ、ひろがれ」 。

 (haru3 )
井上ひさし「言葉よ、ひろがれ」 。

福島過酷原発事故で被爆者になろうとしている日本全土の人たちに

井上ひさしさんが不帰への病床につく2か月ぐらい前、千葉市文化センターで千葉県被爆者友愛会を中心にした講演会が持たれた。

私は幸運にも舞台裏での井上ひさしさんの担当を仰せつかっていた。講演の前後、氏がゆっくりくつろぐ様にする役割といってもよかった。しかしあろうことか氏はむしろ私たちがくつろぐように、ふるまっていた。

氏の地というか自然さというか。笑いも含め、ご自宅付近で求めたものであろうか、いくつかのお土産寿司を被爆者友愛会の旧知の方にふるまっていた。

私はその場面の写真を撮ったり、わきにあった講演レジュメをのぞいたり、今となっては大変失礼なことで、反省ものだが、打ち解けた雰囲気の中で許していただいた。

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「原水禁署名運動の誕生」を読む

「斎藤嘉璋」
今日は66回目の広島原爆の日。福島原発による放射能被害が続くなかで考えさせられることは多い。1955年のこの日、広島ではじめての原水爆禁止世界大会が開催されたが、主催したのは原水爆禁止署名運動全国協議会であり、大会を成功させたのは3216万筆の署名だった。その署名運動を始め、中心を担ったのは東京・杉並区の主婦たちをはじめとする諸組織、団体、個人だった。
 私はかって東京都生協連発刊の「東京の生協運動史」を執筆したおりに杉並区生協婦人協議会の皆さんが原水禁署名運動に取り組んだこと知り、その後もその先進的な取り組みのことを書いたり話したりしてきた。しかし、それが原水禁運動全体のなかでどのような位置、意味をもつものかは十分勉強できてはいなかった。今回、杉並での原水爆禁止署名運動の発生、発展について書いた「原水禁署名運動の誕生」(丸浜江里子著、凱風社)を読み、全体像が理解できた。
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「『福井発の挑戦』を読んで」に対する ご感想・ご意見集

[大友弘巳]
 
 7月5日のページに掲載させていただいた「『福井発の挑戦』を読んで」に対して、ご感想やご意見をお聞かせくださいと、先輩や友人の皆様にお願いしたところ、沢山お寄せいただきました。その中の一部の抜粋を、順不同でここに紹介させていただきます。
 紹介することを前提としていたわけではありませんので、どなたが書かれたものか分かるような文章はカットし、一部表現を簡略化させていただいています。
 それでも、皆さんがどんな風に感じられ、考えておられるかをお互いに知り合うことが、福井県民生協からの学びを広げ、深めるためのきっかけになればと考えております。
 「福井発の挑戦」そのものをお読みの方々も多くなっておられると思います。引き続き、ぜひ、ご感想やご意見をお寄せ下さい。

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ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ

[吉永紀明]
 66年目を迎えるヒロシマ・ナガサキを目の前にして「核兵器廃絶」を訴えてきた人たちから、新たな声が上がっている。
 91年から99年まで広島市長を勤めた平岡 敬さんは次のように述べている(11年8月2日山陽新聞「識者論評」)
 『今まで核兵器を目の敵にして、廃絶を主張してきた。・・・・しかし、東京電力福島第1原発事故が起き「原子力の平和利用」とされてきた原発が技術的に制御不可能であることが露呈した。もはや「核兵器対人間」ではなく「放射能対人間」という視点で核の問題を見つめざるを得なくなった。・・・・広島も平和活動家も「NPT(核拡散防止条約)を守ろう」と訴え続けてきた。しかし、核保有国に核軍縮を求めたNPT第6条の裏には「原子力の平和利用」を「奪えない権利」と規定した第4条の問題がある。大惨事をもたらした今回の事故を転換点に、今後は第4条に内在する権利を否定していかなくてはならない。そのことはNPTを否定することにつながる
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放射能汚染から逃げない福島の生協   

「寄稿」

[西村 一郎]

いわき市へ
 上野駅から仙台へ向かう常磐線に乗って北上し、茨城県から福島県に入って3つ目の泉駅で下車したのは11時過ぎであった。真夏の太陽が照りつける駅前の広場で、持参した折りたたみの自転車を組み立て、放射能汚染防止のためにマスクを付け、リュックを背負って小名浜港をめざした。
東日本大震災による福島県の被害は、死者1755人で行方不明が202人、そのうち「いわき市」では、死者308人と行方不明者42人にもなっていた。走っていた途中の公園には、地震や津波によって破壊されたおびただしいガレキ類が高く積み上げてあった。環境省の発表によれば6月28日の段階で、福島県のガレキの推計量は228万tで仮設置き場への搬入率は23%で、いわき市のそれは88万tで30%とのことである。
30分ほどで小名浜の漁港に着く。港に何隻もの漁船は停泊しているが、まったく以前の活気がない。魚市場や近くの物産店などの建物は、土台だけで形がないか、もしくは外形が残っていても1階は大破し、壁や柱などがゆがんで痛々しかった。
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住田型木造仮設住宅の先見性

[加藤善正]
東日本大震災・津波の発災から4ヶ月と3週間が過ぎた。被災地の復旧はまだまだ見えない状況で、復興の槌音も未だ聞こえてこない。岩手県では仮設住宅は何とか計画の1万4千戸が建設されたというが、雨漏りや床の歪み、結露や騒音などの苦情が800件以上も出され、交通の便や買い物の不便さなど未だ入居できないままの住宅もあるという。
こうした中で、被災地陸前高田市・大船渡市から20kmほどの内陸にある住田町の木造仮設住宅の素晴らしさや先見性ある取り組みが、全国的に注目を浴びている。
7月7日、千葉の高橋晴雄氏、埼玉の大友弘己氏、佐川氏を案内して400kmの被災地見舞いを行なったが、この際も住田町の木造仮設住宅を視察してきた。そこは全部で110戸の町単独事業のうち10戸ほどの仮設住宅であったが、他の仮設住宅とは異なり戸建てであり、一目で木のぬくもりを感じる佇まいであった。

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