コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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続き  8月15日だから

「晴3」 敗戦直後の自宅付近

○程なく米軍が進駐してきました。先頭に機関銃をすえたジープが走り十数台のジープ、トラックが家の前を過ぎていきました。走りながら空砲も撃ったと後で聞きました。占領開始の威嚇を狙ったのだと思います。
○近くの仙台駅の半分はペンキが塗られたのか瀟洒な米兵専用駅になり、金網越しに覗き見ることができました。列車は冷暖房つき。日本の列車は窓から体を出すほどの込み具合。その差は歴然、敗戦国の姿でした。米占領軍兵舎が置かれた榴ヶ岡(旧陸軍四連隊。ここには2等兵の兄がいて母と慰問に行ったことがある。殴られて顔が無残に膨れていた。ここからガタルカナルやアリューウシャンや北支さらにビルマなどに派遣され転戦し多くが死んだ)向かう道路はMP憲兵が厳重な警護、交通整理に当たっていました。駅は戦災孤児や、家を焼け出された人たちの住処になっていました。線路下のガードも家を焼け出された人たちの住処になり、その状態がしばらく続いていました。

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8月15日だから 

「晴3」   私の戦争体験  1945年7月10日、仙台空襲 米軍進駐

戦争で辛酸をなめた人々が国民の多数者だったころ、幼少時の私の戦争体験などは取るに足らないものと思っていました。事実辛酸をなめた多くの方と比べるべきもないのですが、あえてつたない体験を述ることにしたい。なぜならいまや戦争を実感し得ない世代が圧倒的な多数者になりました。戦争のむごさを人々が忘れるとき戦争(準備)への道を為政者は容易に進めるからです。
爆撃下、7歳時の私の記憶は朦朧としていて断片的なのですが、そのいくつかの場面(シーン)は強烈によみがえってきます。 
1945年7月9日も空襲警戒警報があり、それがやっと解除され家族はほっとしたようです。そんな矢先、真夜中の0時を機に134機による突然の爆弾、焼夷弾投下が始まり2時間続き1060人の犠牲者と市街地の大半を焼け野原にしました。
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八月・盛岡・生協の平和の営み

[加藤善正]
 今年のみちのくは8月に入っても雨や曇りの日が続き、「梅雨明け宣言」がない年になりそうです。広島・長崎の原爆記念日を中心に取り組まれた反核・平和の運動は、オバマ演説の影響があって例年以上の盛り上がりを見せました。盛岡での生協などの身近な草の根的取り組みを紹介します。ご覧になった方もあるとは思いますが、いわて生協がもっている「南昌荘」(明治17年に造られた邸宅・1100坪の盛岡市保護庭園・盛岡市歴史建造物)に於いては、①8月7~9日に「戦没農民兵士の手紙店」、②6~9日には「大韓国皇太子殿下ご来盛100周年記念企画展」、③8日は「特別講演会・日韓関係の歴史認識の違い」、④9日には平和祈念像「望み」前での「いわて生協平和のつどい」が開かれました。
 ①は岩手県農村文化懇話会が728人から集めた2873通の手紙を編集した岩波新書「戦没農民兵士の手紙」(1961年刊・現在まで20版を重ねる)にはいっている手紙の「現物」と戦時中の生活グッツ
・秋山ちえこさんが盛岡に作っている「非戦文庫」からの書物などを展示したものです。同懇話会と岩手農民大学・いわて生協の共催で、これまで5回開催され、今年は2度目の盛岡開催となりました。

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09夏ーヒロシマ

hirosima
「斎藤嘉璋」
10年ぶりに被爆の日を中心に広島を訪問した。
はじめて被爆地ヒロシマを訪れたのは、1958年、宮崎で開催された大学生協連の全国理事会の帰途に数人の全国理事の仲間と一緒に立ち寄った時だった。学生だった50年前、原水爆がみたび使われるのではないかという危機感で一杯だった。事実、その後の冷戦激化のなかでその危機が現実化しそうな状況もあった。そんななかで幸い、地域生協、東協連、日生協の幹部、役員として原水爆禁止、核兵器廃絶の活動に多くの仲間と参加を続けることができた。
しかし、毎年のように参加していたヒロシマ・ナガサキ行動から離れて10年。ひさしぶりの「虹のひろば」の会場の県立総合体育館も「グリーンアリーナ」として立派な施設になっていた。
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この夏の学び

[大友弘巳]
 毎年、7月から8月にかけては、戦争と平和について学んだり、考えたりする機会が多いのですが、今年は特に「加害者としての日本」について知らされたことが多く、胸が痛むと共に、日本がしてきたことをもっと知る必要があるとの思いを深めました。

1、「仲間に守られて僕は、地獄を生き抜いた」
    鳳儀萍著 足永昭訳 中国人殉難者全道慰霊祭実行委員会刊
この本は、私の子供のころからの友人足永氏が、著者と出会ってから4年がかりで翻訳し、編集や校正にも当たって出版に漕ぎ着けたもので、私へも贈ってくれたこと、内容は、私の故郷に近い北海道の栗山町の炭鉱で実際にあった出来事を記録したものであることなどから、興味を持って読むことになったものです。
昭和19年8月、14歳の中学生だった著者鳳氏は、上海の街中の検問所で傀儡政府の兵士によって不当逮捕され、日本軍に引き渡されて日本につれてこられ、約1年、栗山町の角田炭鉱で働かされた体験者です。
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