コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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「次世代無店舗事業」への期待

「生協運営資料NO247号」の特集「動きだしたネットスーパー」を読んで

[大友弘巳]

「CWSってなんじゃ?」
我らコープOB世代の常識では、CWSといえばイギリスの生協の卸売り事業連合会のことでしたが、CRSとの合併によって組織が変り、今ではこの略称は使われなくなっています。
日本の生協の今日のCWSとは、「coop web standard 」の略号で、「生協の新世代web標準」という意味で、昨年から使われるようになったばかりとのことです。
このCWSが全国の生協共通の標準として確立していくことになれば、生協の事業、とりわけ無店舗事業の新たな発展段階を創っていく原動力になる可能性があると思われます。
願わくは生協の事業基盤らしく、組合員参加の組織としての強みを生かし、他のネットスーパーでは真似のできない活力を生み出すものとして構築されることを期待したいものです。

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厚労省に座りこみの被爆者の声  26日

[晴3]続き

26日厚労省前の座りこみ被爆者と弁護士の言葉から

○7歳と時広島で被曝。Hさん女性

原爆のつらさを体験してきて昨日の北朝鮮の核実験に怒りを持ちます。苦しみが体の中に閉じこもっていてにげないのです。この苦しみを持って最後まで戦います。即死した兄、一緒に爆風にとばされた友達 なくなった父母のことを考えると(原爆症を)認めてもらうまではどんなにからだがきつくてもがんばらなくてはなりません

○ 熊本からの上京した被爆者  女性
    地裁で良い判決がでたのに、厚労省は甲状腺疾患は認めなかった。私は7歳の時キノコ雲の下にいたのです。地獄でしたがこうして生きているのは、皆さんがいて2度と私のような被爆者を作らせないとがんばっているからです。(厚労省に向かって)  認めてください。救済してください。
s-写真2009-5-26  厚労省前 004


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28日10時の東京高裁判決とその後の政府の言明に注目をしてくださいませんか。


[晴3]
こんばんは。既におやりの方には恐縮です。釈迦にせっぽうのきらいがありますがコラボに入れます。被爆者のことです。少しかかわった程度ですが刺激が大きかったので参考に発信します。今日のことです。

28日10時の東京高裁判決とその後の政府の言明に注目をしてくださいませんか。被団協被爆者にとって命をかけた最後の戦いです。またもしも司法で17連敗の政府が控訴するならオバマ言明にみられる世界の新しい流れを日本は理解せず、逆らっていることを内外に示すことになります。

被爆者の平均年齢は78歳、残された時間はない。原爆や戦争を実感として持ち得ない国民が多数となる中、 生き証人の使命として、原爆症の酷さ、非人間性を政府が認め、核廃絶の確固たる道を歩んでほしい。
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生協の反核平和の取り組みー歴史断片3

「斎藤嘉璋」

それは原水爆実験反対のお母さんたちの声から始まった

 昨日、25日の北朝鮮の核実験のニュースには驚いた。核大国アメリカのオバマ大統領が「核兵器のない世界を」と発言し、国際的な世論、政治の動向が変化し始めたかと期待されているおりの挑発的暴挙である。
 このような驚き、怒りは原水爆の実験が報道されるたびに被爆者をはじめとする日本の国民にわきあがった。なかでも、1954年3月1日、アメリカのビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸など日本の漁船が被爆したとの報道は3度まで日本国民が犠牲者になったことへのショックと怒りを与えた。
 久保山さんなど漁民の被爆への怒りとあわせ焼津港に水揚げされたマグロの汚染も国民、なかでも漁民と消費者にショックを与えた。東京の杉並区での消費者・お母さんたちと魚屋さんたちの話し合いのなかで、なんとしてもアメリカの原水爆の実験を中止させなくてはならないとの声があがった。
 その杉並の婦人たちの取り組みには当時の生協の組合員、お母さんたちが多く参加していた。
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「闇夜に種を播く如く」を読んでⅢ

[加藤善正]
またまた、ページが途中で一杯になってしまい、ページ拡張の仕方がわからないうちに、「保存」が流れることになり、誤字も多くなりました。いずれ、もう少し続けます。
 「一楽語録」のつづき
*有機農業とは、技術的様式の問題ではなく生活上の価値観の問題である。(30年以上前に一楽先生の影響があり、「岩手県有機農業研究会」を立ち上げ、事務局長をしていましたが生協の仕事が忙しくなり離れました。ここ5年ほど前から「農を変えたい東北集会」などに加わる中で、最近再び加入し、若い有機農業者との付き合いも増え、この語録の意味がわかりかけています)   *「提携」は使用価値の面でつながり、「産直」は交換価値の面でのつながりと考えている。(一楽先生の理論を私以上に学んでいる田辺準也さんは、早くから「産直」ではなく「産消提携」という表現で取り組みをされていました)   *民衆の運動には、食料を商品としない脱商品化が根底になければならない。(生活クラブの方々の商品ではなく生活財という理念に近いのではないか。それにしても、最近の多くの生協の「商品提供(販売)のための生協」という自己規定にいつもなじめないでいます)  

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「闇夜に種を播く如く」 そのⅡ

[加藤善正]
5月22日、一楽照雄先生の思想と実践を描いた「闇夜に種を播く如く」を呼んでの文書を書いていた時、急用ができて「保留」にして後日続きを書く予定でしたが、操作ミスからブログに流れてしまいました(チェックしないために誤字脱字も多くあり)。申し訳ありませんがその続きを書きますので、併せてご覧にただければ幸いです。

盛岡市民生協の班長会議での「加藤専務は協同組合をよく知らない未熟者だから、彼のいうことを簡単に信じない方がよい。皆さんが自分たちでつくった生協の主人公なのだから、専務だろうがおかしいと思う人を辞めさせる権利が皆さんにあるのですよ!」というこの話は、私にとってその場では赤面の至りでしたが、その後何度も組合員の学習会などで、一楽先生の解く「協同組合とは」を話する際にはいつも皆さんに話した「エピソード」でした。そして、「生協はいくら大きくなっても、歴史を重ねてもあくまでの組合員のものであり、所有者・主権者の組合員のくらしと人間としての思いや発想を最優先する運営が、トップとしての責任である」と繰り返し自分のなかで言い聞かせてきました。いろんな困難な場面では「一楽先生ならこの問題をどのようにかんがえるのだろうか?」と自問することも数多くありました。

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斎藤さんの「よりよき生活と平和を巡って」を読みました。刺激を受けて

[晴3]
斎藤さんの「よりよき生活と平和を巡って」を読みました。

私はかって責任者として東大生協25年史編集 執筆に関わりましたが  その由来はスローガンをつくった当時「国際学連」が「平和とよりよき生活のために」を掲げていて、学生役員だった飯尾要氏(新聞記者を経て生協職員のち大学教員)が 「 生協は生活だから逆転させて生活を先に出し「よりよき生活と平和のために」を日生協に提案したと聞いています。戦争の灰燼から生まれた戦後生協にとって大切なことでした。

さてそも「平和が先か」「生活が先か」ということですが  経緯や由来はひとまずおくとして生命そのものを消滅させてしまっては 生活も人生も 信条も思想も競い合う場も失う訳で 平和はすべての前提なことは自明なことです。これが原則です。
現在一発で広島型の千倍の威力を持つ27000発の核兵器があり 核兵器を呼び込む戦争の火種は消えず  米国の新自由主義と軍拡に追随している日本にあって 、また命を脅かす地球環境破壊(戦争と戦争経済がもたらす地球環境破壊は環境破壊のさいたるもの)がある中で今を生きる すべての個人、あらゆる団体が自らの立場から「命」を守るために積極的行動やコミットメントがなければ人類の未来は失われることになる時代です。

そのことを前提に、私は生協にあってはこれまで掲げてきた「生活と平和のために」がいいと考えています。

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「闇夜に種を播く如く ・一楽照雄の思想と実践」を読んで

[加藤善正]
既にお読みになった方もあるとは思いますが、この度、(財)協同組合経営研究所の発行した(編集・発売は(社)農村漁村文化協会)「闇夜に種を播く如く・一楽照雄―協同組合・有機農業運動の思想と実践」という書物が復刊されました。アメリカの金融危機に端を発した「世界連鎖恐慌」が世界の貧しい国々の貧しい人々の命を奪い、先進国の国民経済を根こそぎ揺るがし、グローバル資本主義の限界が誰の目にも明らかになっています。今こそ資本主義のオルタナティブとしての協同組合がそのアイデンティティを再確立し、その本当のミッションを再発見することが求めれている時はないでしょう。私はこの十数年来、日本生協連の基本的政策や路線を批判し、この作業を全国の組合員・常勤者が真正面から取り組む必要性を訴え、日生協にその先頭に立つことを求めてきましたが、09年度の通常総会の議案書を読んでも、こうした問題意識は少しも感じ取れません。今度の総会にいかなる態度で臨むかを考慮中に、この書物が贈られ精読しました。
私の半世紀近い協同組合運動の理論や実践にとって、一楽照雄先生の影響はきわめて大きなものがありました。

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「平和とよりよい生活のために」について

[吉永紀明]
 暫くご無沙汰していました。
 斉藤さんの「平和とよりよい生活のために」の「平和」が先か「生活」が先か。という話について一言述べたいと思います。
 実は、5月19日おかやまコープの「くらしの助け合いの会」の20周年記念総会があり、その中で私が「共助のこころを大切に」という話を30分ほどしました。
 話の中で『生協は「平和とよりよい(き)生活のために」のスローガンを大切にしてきました。私は昔、時々「よりよい生活と平和のために」と書いて、当時の日本生協連の中林会長からしかられました。
「吉永君、よりよい生活というのは、平和な社会があって初めて可能なことなんだよ。だから平和が先でなければならないんだよ」と言われました』と述べたばかりでした。
 賀川先生とのやりとりや、福田さんが提案したことはわかりませんが、私が1963年に母校(北海道酪農学園大学) に生協をつくり、大学生協連との関わりの中では、確か「よりよい生活と平和のために」という言葉があったように思います。それが頭にあったので、日生協に入ってからも、中林さんから注意されるまでそのように書いていたのではないかと思います。
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生協の反核平和の取り組みー歴史断片2

「斎藤嘉璋」

”平和とよりよき生活のために”をめぐって
<平和>が先か<生活>が先か
 日本生協連は創立宣言で<平和とよりよい生活のために>をうたってから、それは長らく基本スローガンとされたが、大学生協では<よりよい生活と平和のために>と生活を先にするスローガンを使う例が多かった。
 調べてみると東大生協が1950年6月の第5回通常総代会のスローガンに<よりよき生活と平和のために>と<学消の歴史を繰り返すな>を掲げており、その年に各学部自治会の支援のもとに全学的に展開した“協組防衛闘争”でもこの二つのスローガンが使われている。(「よりよい生活」は当初「よりよき生活」だったようであるが、ここでの既述は正確に原典に当たったものではない。)
 私は1957年から大学生協にかかわったが、大学生協ではそのスローガンに<よりよき生活と平和のために>が使っていたように思うが、「平和が先か生活が先か」といった論議があった記憶はない。しかし、60年に日生協に就職すると「平和が先だ」と教えられた。
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生協の反核平和活動の歴史ー断片1

「斎藤嘉璋」

<平和とよりよい生活のために>
 オバマ大統領の「核を使用した唯一の保有国として行動する道義的責任がある」としたプラハでの軍縮講演は被爆国日本の我々はじめ世界の人々に大きく歓迎された。ニューヨークで開催されていた核不拡散条約(NPT)再検討会議の準備委員会にもオバマ大統領は「アメリカはNPTの約束をはたす」とメッセージを送った。来年のNPT再検討会議は日本の反核平和運動にとって長い間の悲願だった核兵器廃絶にとって大きな意味をもってきた。
 昨年11月、東京都生協連では秋葉広島市長を呼んで「平和市長会議」の「2020年までに核兵器廃絶」構想の学習をし、今回のNPTの準備委員会にむけての署名運動に取り組んでいた。秋葉市長は同会議に出席し(その署名簿も一緒に国連に届いたと思うが)「私は被爆者が生きているうちに核兵器廃絶を達成できると考える」、「そのことこそ亡くなった被爆者に敬意を表することだ」と述べている。
 オバマ大統領の「核兵器のない世界」を追求するという姿勢を本物にするために、来年のNTP再検討会議を大きく前進させるために、生協の反核平和の取り組みがこれまで以上に広がることが期待される。
 ということで、生協の反核平和の歴史について、ちょっと翻ってみたい。
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今日は憲法記念日。 その2 

[晴3]

東京新聞3日付の「改正し国防基本法を」の見出しで元陸自中部方面総監松島氏の主張を書き留めてみよう。

憲法を改正して「自衛権の保持」「国防軍の創設」「国防は国民の義務」の三点を明記する。その新憲法に基づき、国防基本法を作る。そして、この基本法の基に国防省設置法や国防軍法ができるべきだ。
 専守防衛の枠は北朝鮮の弾道ミサイルへの対処にも影響している。ミサイル防衛(MD)システムを増やしても、完全には防衛できない。先制攻撃しか方法はない。
 国民の安全を単独で守ることができないなら、米国に協力するほかない。基地を提供し、「思いやり予算」を維持するだけでなく、対米支援の姿勢を明確にしなければならない。米軍再編で決めたグアムの米軍施設を日本がしっかり建設することが重要だ。
 沖縄本島より以南の先島諸島のいずれかの島に、長崎県対馬のような自衛隊警備隊を常駐させるべきだ。陸海空自衛隊が統合した島しょ防衛体制を早急に構築しないと。
 軍事アレルギーのつけは必ず国民に回ってくる。(赤青字は小生がつけた)
 


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つづき 今日は憲法記念日

[晴3]
ミサイル

次はこの日公開した広報史料館。
かねてみたいと思っていたので年1回のこの機会にのぞいてみる事にした。広報史料館は入り口の「高射学校の使命」の掲示に次いで「高射学校の教育訓練訓コ-ナー、郷土コーナー(四街道にあった戦前の陸軍野砲学校)  鉄道連隊コーナーおよび佐倉連隊コーナー(57連隊)など6セクションがありいずれも興味深かった。写真撮影は禁止で説明要員もいない、約1時間半みたが2~3脳裏に焼き付いた掲示説明文を紹介しよう。
「高射学校の教育訓練訓コ-ナー」では自走ミサイル、地対空ミサイル、等の訓練状況とレーダーでは敵機の高度、速度、距離 、方向を測定する訓練が示され、「防空のメッカ高射高射学校へようこそ」の文が目にとまった。
 
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今日は憲法記念日

「晴3]

鳩

7歳の時だった。深夜未明に空襲が仙台をおそった。爆撃のさなかで防空壕を抜け出し郊外の神社の森に母にくるまれるようにして逃げたのだが空襲が収まり戻ると家は爆撃と火災を免れていた。しばらくして叔父がむかえにきた。ここにいては危険だと言うことで迎えにきたおじに手を引かれて救援トラックが待機していたところにたどり着き荷台に鈴なりに詰め込まれ疎開先に向かった。トラックに乗るまでまだくすぶりつづく見渡す限りの焼け野原の真ん中を通り、焼け落ち電線が垂れ下がった電柱等が道をふさぎ、焼けこげた死体が道ばたに転がっていた。一睡も?できなかったので朦朧としていたはずなのだが道中の光景が不安な気持ちをともなって今もって鮮明によみがえってくる。長じるにつれ無謀な戦争の原因を学ぶことになるが私にとって日本国憲法は格別なひびきを持つようになって行った。今日5月3日は62回目の憲法記念日である。
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中国の大学生との交流ウオーキングに参加して

[大友弘巳] 
4月11日から15日まで、4泊5日の短期間でしたが、中国の上海に近い浙江省の杭州市と、その西の安徽省の黄山へ旅してきました。
 杭州市では、日本人観光客と杭州市の大学生合わせて約1,000人が、おしゃべりしながら市の西部にある西湖を一周する「ふれあいウオーキング」のイベントに参加し、安徽省黄山市では、7人の知人友人仲間で、世界自然遺産となっている黄山をハイキングし、さらに、宏村鎮、及び、西逓鎮という世界文化遺産に登録されている古い村を散策するオプショナルツアーに参加しました。歩くという点では共通していますが、ちょっと変わった組み合わせの旅でした。
 旅の様子や写真は、私の個人のブログ「第三期の人生を元気に」で紹介していますので、
もし興味がありましたらそれをご覧いただければ幸いです。
 (http://blog.otomo.daa.jp/ このURLをクリックしていただくと画面に表示されます)

 ここでは、日本語を学んでいる中国人大学生たちとおしゃべりしながら、13kmを一緒に歩いた中で聞いたことや感じたことを記したいと思います。
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