コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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「異端派生協の逆襲」を読んで(その3)

[大友弘巳]
班(グループ)について~組合員同士の助け合いは不要か?
 (その2)から随分間が空いてしまいましたが、班・共同購入を全面的に否定する下山さんの論旨についての疑問が残っているのに、何も言わずにいると是認しているようで気にかかっていますので、やはり私見を述べておきたいと思います。
 氏は、「(90年代に入って)共同購入という事業形態は限界に近づいて」いたのも関らず、「成功があまりにも大きく、基礎組織としての班があまりにも有効だったので、それを崩すような、あるいは壊すような供給形態を採ることは、生協の運動も事業も否定するものだとして見向きもされなかった」、と述べ、さらに、多くの生協が共同購入にこだわって個配を否定したのは班組織に細胞(共産党の昔の基礎組織名)に類似しているという幻想をもってしがみついていたからだ、としています。
 今は共産党でも使われていない「細胞」という昔の組織名を持ち出してまで、「班」に対して古めかしい特殊なものというイメージを被せ、過去の遺物と片付けてしまおうとするのはなぜなのか、そこまで班を否定する意図が理解できませんし、妥当なこととは到底思えません。

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[社会的経済]推進のための協同組合間協同   寄稿 岡本好廣

生活に根ざした経済体制構築のために
ウオール街の詐術まがいの金融バブルの結果、世界は経済危機の最中にある。一方資源、環境、貧困、格差の是正が緊急の課題である。今こそ飽くなき利潤追求の経済から生活中心の経済に転換していかなければならない。そのためのオルタナティーブとして[社会的経済]が期待されている。[社会的経済]には「社会的協同組合」が担うものと、「社会的企業」が担うものがある。前者を代表するのが、スペイン・バスクの「モンドラゴン協同組合」であり、後者はバングラデシュの「グラミン銀行」である。「モンドラゴン協同組合」は<労働の優位性、資本の従属性>を運営原則にして、生産、金融、流通から大学の設置・運営まで見事な成果を収めている。後者は貧しい人々にマイクロ・クレジットという小口の貸付を行って、貧困からの脱出を図っている。借り手である700万人の97%が女性であって、返済率98.6%という健全経営を実現している。この事業でノーベル平和賞を受賞した指導者のムハマド・ユヌス博士は、この成功をもとに多様な社会的企業を展開している。これに倣ってアジア、アフリカ、ラテンアメリカの100カ国に及ぶ国々にマイクロ・クレジットが広がっている。両者が貧困と格差をなくすための「仕事おこし」として進められてきたことは、現在の世界的経済危機に役立つ活動として注目される。

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気になる生協の言葉ー「営業部」など

「斎藤嘉璋」

 このブログで日生協の政策討論集会では北川三重県知事が記念講演で生協について「組合員主権、組合員の生協」の原点強調をしたことが紹介された。昨年の日生協総会では来賓の中村厚労省局長が同様に協同組合原則と理念について語り、参加者の大きな拍手を受けていた。餃子事件いらい外からは生協への警告として原点、原則や理念重視が語られているようだが、現状はどうだろう。
 最近の生協はその理念や思想に問題があるのではと懸念される意見がこのブログにも出されており、一方、OBは軽々しく現状に対しものをいうことには慎重にという意見も載っている。
 私も最近の生協には理念・思想の危機といったことを感じるが、発言は慎重にという気分もある。一昨年、自分のブログに「どこへ行く生協」と県域を越えての合併に危惧の念を表明し、その後そのことは関係者にも意見表明したが、その件は餃子事件もあり棚上げとなっている。最も心配した事項が棚上げになったので、いろいろ気になることはあるが発言は控えてきた。が、外の方の発言に拍手を送っているのもおかしいので少し発言することにした。
 気になっていたことの一つ、生協らしくない言葉づかいについて、最近、「余計なことをいう」と嫌われることなく(?)現役と話ができたのでそのことを紹介したい。
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弱いものに犠牲をおっかぶせる混迷  ぬくもり喪失の時代に

[晴3]
弱いものに犠牲をおっかぶせる混迷  ぬくもり喪失の時代に

弱いものに犠牲をおっかぶせる混迷の時代は底なしに長期化するのではないか 。
見通せない未来。高度成長からバブル崩壊を経て資本擁護にのたうち回る為政者。こんな中 人々は 資本の利益のために あくせくさせられ 仲間との絆を軽んじ 協同を見失ってきた。小手先では何も解決しない時代が到来している。

仕事仲間  家族  地域  生き物 文化にであえば  

しかし 人々は失ってきたものの大きさ(例えば農業 緑 子ども 健康  文化  はたらく喜びなど)に気付き初めている。 仕事仲間  家族  地域  生き物 文化にであえば  希望や喜びも生まれる。そんな中にこそ人間的な温もりの実感がある。
規模の利益のために集中に夢中になってしまった組織は変質あるいは吸収されいずれ長く持たないのではないか、その実例がこの社会に次ぎ次に出てきている。温もりのない組織はいずれ先絞りになっていくのではないか。

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核兵器廃絶「平和と文化のつどい」に関わって

[晴3]
環境パートナーシプ機関誌に書いた原稿ですが  核廃絶の発展を願って載せます 高橋

核兵器廃絶「平和と文化のつどい」に関わって   

暮れも押し迫った12月21日「核兵器廃絶平和都市宣言記念25周年“平和と文化のつどい”」が四街道文化センターホールを舞台に行われた。入場者約1200名がホールを埋めた。主催は四街道核兵器廃絶平和都市宣言の精神を継承する市民「実行委員会」で自然、福祉、教育、文化、社会奉仕などに係わる市内83団体が後援団体に名を連ね、四街道市と教育委員会が共催した。このつどいの運営は企画起案、出演者等すべてが市民参加で組み立てられたことに特徴があり、8万人口の小都市にとっては画期的なことであった。今後の環境活動や街づくり活動にとっても参考になるものがあり取り上げることにした。

 従来、自然の活動であれ、教育や子どもの活動であれ、市民の中に広い関心があるものの、単独で広範な市民知らせ あるいは一堂に集める企画を組むことは困難があり、加えて“平和の活動”については、何か偏った少数の人たちが行っているといったイメージが勝手に作られていたように見える。しかし今回はそれを見事に打ち破るものであった。

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四街道の魅力 水の恩恵

「晴3」
四街道の魅力 水の恩恵 と 乱開発

瑞穂の国に生まれた幸せをもつ私たちは普段はあまり水を意識しないで過ごしてきました。蛇口回せばいつもじゃー。風呂水も シャワー水もボタン一つで、シャー。幼いころバケツで運んだお風呂の水汲みはもはや遠い忘却の彼方へいってしまいました。

印旛沼

こうして便利だけを享受した結果 水の後先、つまり水源地の川上の森と川下の河川、湖沼や海の大切さをさほど気にしなくなってしまいました。その結果「とてつもない仕返し」が始まりました。例えば千葉県民の3分の1の水道水源印旛沼、その汚れは全国ワーストワン、もといワーストツウです。国を挙げてのGNP第1主義の時代の中で変りはてました。何年か前印旛漁協の船を借り環境学者の説明で印旛沼を一周したとき見た光景やヘドロや水質はそれはそれはひどいものでした。いま印旛沼の浄化の緊急行動が発せられています。 
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「リメンバー・・・」と「ノーモア・・・」

[吉永紀明]
 7月にカナダを訪問する天皇が帰途にハワイのパールハーバーに立ち寄ることを検討しているという記事を見た。
 パールハーバーは1941年12月8日に日本が奇襲攻撃をかけた場所だ。
 このことでアメリカは「リメンバー!パールハーバー」を合言葉に第2次世界大戦に参戦を決定づけた。(1941年は私が生まれた年で、この年を覚えるのに「行くよ一番真珠湾」と覚えた)
 この「リメンバー!パールハーバー」という言葉を聞くと思い出すことがある。
 それは1978年にニューヨークの国連で開かれたSSDⅠ(第1回国連軍縮特別総会)に参加したときのことだ。
 その前年の1977年に、広島・長崎で亡くなった人たちの人数を確定させ、もう一度世界に核兵器廃絶を訴えていこうということで、科学者、被爆者団体、平和団体、市民団体、宗教者団体などを中心に「被爆問題シンポジューム」を東京、広島、長崎の3箇所で開催した。
 それと前後して、SSDⅠの開催が決まり、長い間の被爆者の核兵器廃絶の願いが実現するかもしれないと機運は一気に高まった。
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大学生協の思い出(その2)

[大友弘巳]
「火災に遭った食堂への復旧支援の連帯活動」
 埼玉大学生協の食堂の火災は1966年1月15日未明のことでした。全焼に近いとはいえ、かろうじて柱や屋根の骨組みは焼け焦げてはいたが残っていたという状態でした。
 原因は泊り込んでいた学生理事が壊れたコタツを使用して寝込んでいたことによるもので、生協の責任であり、批判や非難が寄せられて当然の状況でした。
  埼玉大学生協の役職員は私を初め呆然の状態でしたが、近くの会館に泊り込んで予算編成のための合宿をしていたところでしたので、消火が終わった後ともかくまず片付けようと早朝から作業を始めていました。そこへ、東京地連傘下の大学生協の職員が多数支援に駆けつけてくれ、「学生に迷惑をかけないように営業を再開できるようにしよう」との意思統一の下強力な援軍として作業をリードしてくれたのでした。
 さらに連絡が届いてから駆けつけた、学生理事や、学生委員、成人の日で祭日だったにも関らずサークル活動に出てきていた学生まで応援してくれ、数の力で片付けは見る見るうちに進んでいきました。
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大学生協の思い出

[大友弘巳]
 全国大学生協連合会が法人格を取得して昨年50周年を迎えたことから、今年に入って、当時大学生協に関っていた人々に思い出を書いてもらって、「思い出集」を発行する準備に着手しています。
 コラボ・コープOBの運営メンバーの大方が思い出を書く該当者ですので、この場にも投稿し合ったらどうかと考え、私が書いたものをまず投稿させていただくことにしました。
 長いので、2回に分けて投稿します。

大学生協の思い出 (その1)
「設立運動のこと」
埼玉大学で生協運動設立が始まったのは1959年春でしたが、丁度学生運動は日米安保条約改定の動きへの反対運動について諸派対立しながら激しい議論をしていた頃でした。
設立支援に当たってくれたのは東大生協で、東京の東部ブロックということで埼玉も対象だったのです。同じ頃、東部ブロックでは、東京教育大学、御茶ノ水女子大学でも設立運動が進んでおり、それぞれほぼ同時期に設立が成功したのでした。
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