コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

私的生協運動史

「斎藤嘉璋」
 50年前の大学生協ー2

一般紙 大学生協新聞 「大学生協は静かなブーム」と報じる新聞と大学生協連の機関紙。クリックすると拡大して読めます。

 
 数カ月前になるがある地域生協の若いトップA君と日生協の幹部職員B君と会食する機会があった。その折にB君の「生協は社会運動の一つだからな」という発言にA君は「本当に社会運動の一つと思っているんですか」と意外そうに質問した。 A君の生協は消費者運動課題や平和とか産直とかいわゆる運動課題に熱心な生協で、「意外そう」な態度をみせたのは、その理論にではなく日生協幹部や私など先輩にそんな運動論を聞く機会がなかったためのようだった。
 ひるがえって自分は他の大学生協出身者もそうだと思うが、生協に関わった当初から生協は“生協運動”という言葉通り社会運動の一つだと理解していたようである。生協運動論といったことでは、やはり全協(注)の第10回大会で決定した3つの運動課題をめぐる路線論議が実践的な学習だった。(注―大学生協連は1947年、全国学校協同組合連合会として設立、略称は全学協。翌年、小中学教職員による全国学校生活協同組合連合会設立、略称は全学協連。略称もまぎらわしく私たちは大学生協連を「全協」と呼んだ。)

つづきを表示

スポンサーサイト

PageTop

映画「いのちの里(仮題)」制作運動―第1報

[加藤善正]

史上最短内閣と予想される「麻生内閣」が誕生しました。与党の総選挙対策としての「後期高齢者医療制度の見直し」が報道されていますが、こうしたまやかしの「宣伝」に75歳以上の当事者は勿論、多くの国民(主権者)が騙される危険性はあまりないと思います。この制度の決定的な弱点はその理念・思想にあり、「人間の尊厳の大本は命である」、「その命はすべて平等である」という哲学を失い、「国家財政再生のために増加する社会保障費の削減」を最優先する哲学に貫かれていることが、益々明らかになってきました。
こうした社会状況の中で、「人間の命こそすべてに優先する政治・行政を!」を高く掲げて「生命行政」を実践した「沢内村・深澤晟雄村長」を主人公とした「劇映画・命の里(仮題)」の制作運動が動き出し、プロデューサー・監督・脚本を担当する方々からの依頼で、岩手県における現地情報や全国的な運動・組織論などに関して私も関わってきており、微力ながらここ2~3年全力投球する決意です。

PageTop

花火見物(トラックバックのテストです)

[米原俊夫]
私も長岡に花火見物に行ってきました。
8月3日午前9時過ぎに家を出て、車で高速道路をひた走り、長岡に昼過ぎに到着。
信濃川河川敷きの打ち上げ会場には、既に大勢の人々が場所取りをしていました。
幸い私は、地元の花火同好会(?)の会員のお世話で席は確保されていましたので、
長岡市内を見学し、夕方6時過ぎに会場へ行きました。
3尺玉の豪快な打ち上げや、橋一杯にかかる仕掛け、一夜で約1万発といわれる花火に
大いに堪能しました。
(写真を撮ってきましたが、この欄への挿入の仕方が分かりませんので、省きます)

PageTop

続き  日本に農業がなくなっていいのか。

「晴3」
目先の小欲のため未来の大欲を失っていいのか

さて、そも、日本の私たちはいつから里山を忘れて、おろそかにするようになったのだろうか。お天道様とともに朝夕があり、感謝し、祈ってきた我が祖先の汗水を忘れてひたすら貧しさからの解放を大義にいわゆる近代化の道を歩んできた。「近代」は「もっと多く」「もっと早く」「より大きく」を追求してきた結果、資本主義の競争原理になじまない自然や農業、そして人間そのものを壊してしまい、日本社会は急激に心貧しくなってきたと思えてならない。田んぼ、里山、トンボ、この日本の原風景は、百姓仕事が作ってきたのどということを認識し、形にする仕事を始めなければ先は暗いと私も痛切に思う。宇根さんは「カネにならない仕事を評価する社会」に変えよと主張する。

一体ぜんたいそんなことが出来るのか。どだい昔に戻れるはずはない。という声が聞こえる。
いや私の中にもある。

PageTop

身近に農業はなくなっていいの?

[晴3]
何年か前「百姓仕事が自然をつくる」の著者、宇根                      
豊氏を招いて講演会を企画したことがあった。そこ
で知ったことだが

トンボの語源は(諸説あるとはいえ)、「田んぼ」だったとは!これにおどろき、トンボやメダカが身近なところから姿を消しつつあることに改めて思いを馳せた。
「田んぼから先を見てきたかれは」大きな発見はタダの虫の発見だったという。実は益虫のえさはタダの虫たちだったのだ。畦の大切さも実感する。なるほど。トンボもメダカもホタルも田んぼが生きているバロメーター。野の花も水辺の草花もドジョウも田螺も。

PageTop

「生協OB九条の会・埼玉」について

[大友弘巳]
「生協OB九条の会・埼玉」は、昨年5月に改憲手続法(国民投票法)が強行採決で決定されたことに危機感を感じたOBたちが、6月4日に呼びかけ人会を持ち、7月12日には「発足の集い」を開催して活動を始めました。
当初は常勤役職員OBでスタートしましたが、すぐに組合員理事や学識経験者理事のOBにも広がって、現在会員数は100人ちょっとですが、学習会や交流会は毎月のように開催しており、9月3日には第8回の学習会を「9条世界会議報告会」として催したところです。
全国では、多くの生協で、もっと早くから、役職員と組合員の有志による「9条の会」や、「9条を考える会」などが作られ、その自主的な交流が重ねられていたことを聞いていたものの、埼玉県ではなかなかそうした取り組みが進まず、残念に思っていたわけですが、改憲の情勢が緊迫してきた下で、ともかくできるところから動き始めようということで、まずOB有志による活動を遅ればせながらスタートした次第です。
PageTop

私的生協運動史

「斎藤嘉璋」
50年前の大学生協
 学生時代に生協に関わってから今年で50年である。大学2年生の終わりのころ1958年の年明けから早大生協の組織部員として携わったのが初めだが、6月総代会で理事になると当時「全協」と言われていた大学生協連担当となり、東大で開かれた全国総会以降は常務理事として代官町(現・北の丸公園)に通うことになった。
 その大学生協連が58年に法人化しており、今年法人化50周年である。といったことで、このブログではしばし50年前のことを書かせてもらう。

法人化―組織基盤の確立めざし  
 大学生協は生協運動全体がそうであったように戦後すぐには高揚したが、ドッジライン強行といったなかでほとんどが活動を停止あるいは解散し、1948年には260もあった組織が1年後には20に満たない数になった。
PageTop

清々しさを味わったひと時でした

[米原俊夫]

昨日、私の住む松本で「平和コンサート」が催されました。
今年でまだ3回目とのことでしたが、300人近くの人で会場は一杯でした。
地元にいて音楽活動をしている人たちの演奏やコーラスに続いて、ナターシャ・グジーというメインゲストが登場しました。
彼女は、ウクライナに生まれ、1986年のチェルノブイリ原発事故で被曝しました。父親が原発に勤めており僅か3,5㌔のところに住んでいたと言います。以来古里はなくなり廃墟となったとのことです。
ウクライナの民族楽器のバンドウーラを奏でながら、その音色に勝るような歌声は、澄み切った青空を思わせるようでした。
病に冒されてなくなっていった友人たちを偲びながら歌った、”コスモス”が印象的でした。
日々世界中で起きている争い、平和の尊さをあらためて感じた貴重な時間でした。

PageTop

老朋友

[吉永紀明]
 大友さんのペンネーム「少老朋友」を見て思い出したことがあった。
 中国の文化大革命で、日本と中国の生協間の交流が長いこと途絶えていた。ようやく文革も終わり、中国商業省から日本生協連に招待状が届いた。代表団は中林会長を団長に、秋田の富樫さん、東京の森定さん、灘神戸の長川さんが団員で、私が事務局の5人だった。4人とも今は鬼籍に入っている。
 北京、蘇州、杭州、廬山、南京、上海を巡る旅だった。
 杭州に到着して、代表団が出迎えの杭州の人たちに向かって歩き始めたとき、真ん中にいたツルりとした頭の人民服を着た小柄な男性が、私のほうに駆け寄ってきて両腕で私を抱きしめました。
 私はびっくりして「団長はこちらの人!」と言って、その腕を振りほどこうとしたが、その男性は「老朋友(ラオ ポンユウ)」と言って手を離しませんでした。

 

PageTop

たった一人でも   一人だから

[晴3]
毎月9の日に四街道JR駅頭で午後6時半から1時間A4裏表のチラシを巻いてきて4年になる。

9月9日は19人の仲間と約900枚配った。内容はその時の時勢に合わせるのだが、無差別テロ9,11から6年目なのでこれを取り上げた。報復の戦争を決議した米国議会下院で421人の議員の中でたった一人決然と反対した女性黒人議員がいた。

2002.9.14のバーバラ・リー下院議員の発言から抜粋
「あまりにも多すぎる罪のない人たちが既に亡くなりました。
 アメリカ合衆国は喪に服しています。もしも私たちがあわてて反撃を開始すれば、女性や子どもやその他の非戦闘員が十字砲火を浴びるという大きすぎる危険な目に遭う恐れがあるのです。
 同様に私たちは、残忍な殺人者によるこの狂暴な行為に対する正当な怒りがあるからと、あらゆるアラブ系のアメリカ人やイスラム教徒や東南アジア出身者や他のどの人々に対しても、人種や宗教や民族を理由として偏見をあおることはできません。
 最後に、私たちは退場の戦略も焦点を合わせた標的もなしに、無制限の戦争を開始しないように注意を払わなければなりません。
 私たちは過去の過ちを繰り返すことはできません。」
PageTop

おくればせながら

[サイレントマン]
 やっとかっとでこのコラボ山の登山口に到達しました。3日間位悪戦苦闘して、自分ではかなりの高さのところまで登った気がしています。文字も言葉もほとんどわからぬままに、異郷の地に降り立った感じです。何合目まで登れるのか、どこに行って何をしようとするかはこれからです。
 ともあれ、これで我が家の名ばかりのパソコンも生き返りそうです。少老朋友さんのおかげで、うれしくもない後期高齢者群に投げ込まれたこの年に、未知なる分野に踏み込めそうで、久しぶりの新たな挑戦です。皆々様、足の遅い奴にとらわれることなく、それぞれのペースで走ってください。マラソンランナーのごとく、ペース配分しながら、コープOBの皆さんに大きく離されないようについていくつもりです。
 どうぞよろしく。

PageTop

平和への意志  願い  行動

「晴3」
わたしがある人のアッシイ君をしながら「追っかけ的に取材し」その原稿を日本評論社刊の「生活の協同」の1節に入れてもらったことがある。
その人(E氏)は早稲田学生時代に目が見えなくなり、いま50才の視覚障害者である。かれは現在統合失調症、認知症の母と2人暮らしである。現代社会で障害者2人という最も生きずらい環境条件の中でいかにして生(活)が成立しているか、驚きと共に「生活の協同」を考える際重要だと思ったからである。かれの生き方は追々ここでもふれることにしたい。

ここではかれは四街道9条の会の1員でなので そのことにふれたい。かれは目が見えないのでラジオを聴き詩を投稿し入選している。ラジオで知ったのが日本在住アメリカ詩人アーサービナードであった。どうしても四街道にお呼びしてほしいと。私はつてのつてをたどって彼にたどり着き12月21日きてくれることになった。前回書いたようにアフガニスタン報復反対を投じた議員は「たった一人」だった。E氏もアーサービナードも当然にも「一人の意志で行動し主張している。

PageTop

被爆63年、長崎での思い

[加藤善正]
被爆63年、長崎での思い
8月7~9日、被爆63年を迎えた長崎へ向かった。「08ピークアクション長崎」終了後、「平和憲法を考える全国組合員ネットワーク」主催の「活動交流集会」で、世話人を代表しての挨拶を頼まれたからである。この活動交流集会は、昨年のひろしま(今年は23生協136名の参加で成功)に次いで今年から長崎でも開くことにし、7生協29名の参加で、各生協の平和憲法九条に関する熱心な活動を、短い時間であはあったが和やかに交流した。ピースアクション長崎も、地元ララコープや沖縄・九州・中四国地方の組合員、とくに医療生協の参加が多い感じがした。7日は平和公園・原爆平和記念館などを視察し、9日は「08原水爆禁止世界大会・長崎」にも参加したが、今回の長崎訪問の最大の収穫は、NPO法人「岡まさはる記念、長崎平和資料館」の存在を知り、その展示物・主張の素晴らしさ、このような資料館を作り維持している人々の「志の高さ」に衝撃を受けた。
7月に元エフコープ専務・元福岡県連専務をされていた「南嘉久」氏から、彼の被爆2世としての思いや平和に関する「文書」を送ってもらっていたので、長崎訪問をメールしていた所、わざわざ北九州から長崎に来られ、この資料館を案内しくれた。
PageTop

おそくなりました。こんごともよろしく

[鹿児島]
連絡は早めにいただきながら、遅くなったことをお詫びします。完全退職から1年3ヶ月すぎました。今年3月頃までは、「やめていてよかったですね」と云われ続けていました。しかしあるOBからは「すべて貴方の責任だ。連帯の名の下に商品統一、事業統一を進めた結果だ」とメールが届きました。それなりに受け止めたいと思っています。仕事がなくなると一日が長く感じるといいますが、あっという間に一日が終わる毎日です。先輩の方々は、さまざまなところで、多様な活動をされていることをこのブログでしりました。私も少しづつ時間をコントロールして何か始めようかなと思っているところです。今後ともよろしくお願いします。

PageTop

核兵器廃絶

 [吉永紀明]
インドへの核燃料・機器の禁輸解除を、原子力供給国グループの臨時総会で満場一致で認めた。何ということだろうか。
 インドはNPT(核拡散防止条約)に加盟していない核保有国だ。それなのに、核保有を事実上容認することになる。
 イランや北朝鮮の核保有を糾弾する一方で、インドやパキスタン、そしてイスラエルの核保有を容認するご都合主義の何ものでもない。まさにアメリカのダブルスタンダードの典型例といってよい。
 私は、2005年に国連で開かれたNPT再検討会議に日本生協連の代表団の団長として参加した。
 被団協の人たちと一緒に、国連のロビーで原爆展を開催し、各国大使館への要請行動、被爆者の被爆体験を小中高の生徒に伝える活動などを行った。
 新たな核軍縮を進めるための会議は、エジプトなどが「イスラエルの核を俎上に乗せなければ前に進めない」発言などで頓挫して、結局最終文書は採択されなかった。
PageTop

上甲伊利一さんの父・上甲米太郎企画展のこと

上甲まち子公演  [斎藤嘉璋]

 上甲伊利一さんは2年前に亡くなられたが、1965年設立の東京西部市民生協の創立時からのリーダーで、東都生協の専務を務められので、生協関係者はご存じと思う。その上甲さんは生協の仕事をはなれると「朝鮮での教師時代に治安維持法でつかまり、朝鮮人労働者とともに釧路や三池の炭鉱に送られた父のことを調べている」と、私に当時くしろ市民生協に行っていた故金子君の紹介をもとめ、旧炭鉱の関係者につてを求めて調査活動をしていた。
 父米太郎は若いクリスチャンとして朝鮮の小学校教師となるが、その真面目さゆえに日本の植民地政策に批判的な教師となり、1930年、伊利一が生まれた年に逮捕、入獄。2年後出獄、その後、戦争激化のなかで朝鮮人労働者の強制連行にともない、釧路そして三池へ。 戦後、今度は労働運動のレットパージで三池を解雇され、大牟田の朝鮮人集落で紙芝居屋として生活、活動を続けた。1987年東京八王子で逝去、享年86歳。

 賀川の展示 その上甲米太郎の展示会が新宿の高麗博物館http://www.40net.jp/~kourai/2event/kourai%20204.htmlで開催中であり、6日(土曜)は伊利一さんの妹・まち子さんが「朝鮮人の子供たちとともに歩んだ父・上甲米太郎」を語るのを聞きに行った。


PageTop

こんにちは

[晴3]

こんにちは。
大友さんらのお陰ですがこんな形で皆さんと出会えるなんてうれしい限りです。
やめてからはや5年たち古稀を迎えました。私に残された唯一ともいえる財産は時間でありひととのふれあいです。 こも貴重な財産を 上手に使うため皆さんに学びあやかりたいものです。どうぞよろしくお願いします。
お近づきのためこの5年間にであったりやったことを紹介します。悪いことでは  自転車にぶつけられ外傷性くも膜下出血になったこと。身障者4級の手帳の取得、楽しかったことでは授業(週2コマ 非営利組織の理論と実践)で若い人とつきあったことと千葉自然学校など3つのNPO役員をしてきたこと。地元では毎週朝市やゴミ拾い、障害者のガイドヘルプ ウエイターなど 生協時代やったことがないもので楽しさとぼけ防止をねらったものです。
その反面生協に疎くなりました。 この5年、協同組合も含め社会も時代も大きく変わりました。不安を持ちつつこれからの世代に期待する以外ありません。半世紀の社会活動の中でであった素晴らしいこコトや尊敬すべき人から次の時代にメッセージになりうるものを抽出したい気持ちがありますが ごまめの歯ぎしりに終わるのがおちでしょうか。 今秋は核兵器廃絶  憲法擁護に集中して取り組もうと思っています。

PageTop

ブログでの交流について思うこと

[少老朋友]
今や世の中はIT時代の真っ只中の様相ですが、森首相が演説の中でITについて触れたことが話題になったのは2000年頃でしたから、あれからまだ10年も経っていないわけです。
この間のパソコンと、それに伴うEメールやインターネットの普及、他方では携帯電話の普及が驚くほど急速でしたし、さらに、パソコンと携帯電話の連結、グーグルによる検索機能の飛躍、そしてブログの急速な普及、とめまぐるしく進展してきています。
アメリカでは、Web(ホームページとブログ)の情報で間に合うということで新聞が売れなくなって、発行部数が大幅に減少しているようですし、オバマかクリントンかで争われた民主党の大統領候補者選びでも、ブログでの情報交換が大きな影響力を発揮したと伝えられています。  (続きは下の行の「追記を表示」をクリックすると表示されます)
PageTop

ご挨拶

[吉永紀明]
初めまして。ようやく1日かかって「コラボ・コープOB」に到達することができました。これからよろしくお願いします。初めてのブログです。胸がドキドキしています。現在は岡山県に居住しています。妻は兵庫県にいます。16年間の単身赴任生活を送っています。3年前におかやまコープの理事長を退任して、現在は常任顧問をしています。退任してからは趣味三昧に暮らそうと思っていましたが、いろいろと多忙な生活を送っています。今年5月に日本ユニセフ協会岡山県支部の代表に選出されました。世界の子供たちのためにもう一肌脱ぐことにしました。8月30日に県支部の20周年の記念の集いがあり、300人を超える方に参加いただきました。私は「平和」を中心にコメントしていきたいと思います。これからよろしくお願いします。

PageTop

ブログ開設にあたって

[加藤善正]
楽しみにしていた「コラボ・コープOB]がいよいよスタートすることになり、大友さんにはご苦労をおかけしましたね。これからいろいろな問題について、お互いの意見や問題意識を交流し、願わくば若い生協人にアクセスしてもらえることも願っています。
私は単協の常勤役員は退きましたが、半常勤の県連会長理事を続けており、地域の関係する諸団体の役員や地域のネットワーク運動の事務局的仕事が多くあり、土・日以外は出勤しております。土日にも地域九条の会での講演や諸行事があり、家庭菜園や釣りなどの趣味の時間が取れないでおります。
日本の生協では「世代交代」がもてはやされておりますが、政財界や地域の諸団体など、高齢化時代にふさわしく70~80代の人々が現役的に奮闘されております。私も「老害」に気をつけてがんばるつもりです。こんな毎日の中から投稿しますので、皆さんのごj批判をお願いします。

PageTop

スタートにあたって

  [ 大友弘巳]
「コラボ・コープOB」、まだちょっと馴染めない名称ですが、だんだん親しみを感じるようになることでしょう。通称「コラボ」だけで話が通じるようになるといいな、などと勝手に思っています。
年齢は少し離れていても、先輩・後輩というよりは古い友人同士として、ご一緒にこのブログで交流し合い、時には議論が交わされることを期待しています。
運営メンバーの皆さんはいずれも、生協をリタイアした後の人生をそれぞれ充実したものにすることに努め、趣味を楽しんだり、社会参加をしたりしているわけですが、それだけでは満たされないものが残っていて、古い友人同士の交流を大事にしたいという思いがあり、このブログの立ち上げに積極的に賛同されたものと感じています。
私は1年ほど前から自分のブログ「第三期の人生を元気に」を運用していますので、そちらは旅行やハイキング、自然観察などとそれらの写真のブログとし、「コラボ・コープOB」では、折々思うこと、平和や社会保障の問題、生協のこと、などについて投稿するようにするつもりでいます。どうぞ宜しく。

PageTop

ご挨拶

[田辺凖也]
おはようございます。9月1日、6時少し前ですが、漸くページ開くことが出来ました。大友さんにはお世話になりました。
ただ、そんなわけで、参加に当たっての抱負、考える暇がありませんでした。
申し訳ありません、みなさんの抱負など伺いながら考えまとめていきたいと思います。
可能な限り、あれこれの束縛を気にせず、自由な発言が出来る自分でありたいと願っています。
自分に対しても、生協や社会に対しても客観的に見ることが出来ればと思っているのですが、
多分、相変わらず主観主義になると思いますので、このブログで皆さんからの率直なご批判をいただければ幸いです。
とりあえずのご挨拶です。

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。