コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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生協と戦争、平和ーその歴史」4

斎藤嘉璋
第4回
第1部 戦前戦中の生協 4

(3) 太平洋戦争と敗戦=生協に壊滅的打撃
<徴兵、徴用、疎開、空襲 —>
 太平洋戦争がはじまりフランス領ベトナムからイギリス領マレー、ビルマ、アメリカ保
護領フィリッピン、オランダ領ボルネオなどへ侵攻した日本軍は、翌42年にはミッドウエ
ー海戦で敗北し、本土に初空襲を受けます。以降、アッツ島やサイパンでの「玉砕」など
負け戦が続きますが、大本営の嘘の発表と報道統制のもとで国民は戦争協力にまい進しま
した。
 徴兵された国民は41年200万人が44年500万人をこえ、敗戦時には696万人になりま
す。勤労動員されていた学徒は44年末「学徒出陣」になり、女性も女子挺身勤労令で12
歳~40歳女性に1年間の就労義務が課せられます(就労500万人)。一方、大都市では空
襲の延焼対策として建物疎開がはじまり、学童の農山村地への疎開もすめられます。
 生活必需品の統制強化で取り扱い物資がなくなるなか生協での働き手も徴兵、徴用で失
い、生き残っていた生協も窒息状態になりました。家庭購買は44年に入ると御用聞き供給
を停止しますが、店舗も建物疎開で壊されるといったなかで協同組合学校等の休校をふく
め全面的に事業を一時停止することになりました。
 45年、東京はじめ大阪、神戸などへの空襲が激化し、東京の下町で展開していた江東消費の活動区域は生協施設をふくめすべて焼け野原となり、東京の都心部から山手に展開していた家庭購買も多大な損害を受けます。神戸消費ではあいつぐ空襲で大半の支部と本部の建物や施設を失い、灘購買は空襲で本部等の建物や施設を失った後もバラックで仮事務所を建設しましたが「施設の70%を失い、組合員の80%が戦禍を受けて四散する」状況で敗戦の日を迎えることとなりました。
 44年11月からの全国各都市への空襲とその激化は国のリーダーたちに”敗戦必至”を認識させていったはずですが、45年に入っても軍部と政府は「本土決戦」「一億玉砕」をかかげ、沖縄での島民を犠牲にしての地上戦、ソ連参戦と引き上げや抑留の悲劇、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下と悲惨な犠牲など、さらなる悲劇をうみだしたうえに「ボツダム宣言」を受諾して8月15日終戦となります。
(資料)
・1940年(戦前のピーク時)の日本の生協
   調査組合242組合 組合員数40.3万人、供給高7,452万円、
 1943年の主要生協
   家庭購買     組合員25,530人  供給高564万円
   神戸消費         8,690人     88万円
   灘購買          9,780人     227万円
(つづく)

つづきを表示

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生協と戦争、平和―その歴史 3

第3回
第1部 戦前戦中の生協 3

3、満州事変から日中戦争へ――思想的政治的弾圧
 昭和期に入ると日本は満州事変(1931年)を起こし”15年戦争”の時代となります。
32年上海事件、満州国建国、33年国際連盟脱退と中国華北への侵攻、そして36年2・26
事件と侵略戦争と全体主義=ファシズムへの道を邁進することになります。
 37年、盧溝橋事変から日中戦争となり、南京大虐殺事件など日本は侵略者として国際的
な非難を受けます。この満州事変から日中戦争開戦までの間に、思想的政治的な取締り強
化を目的に制定された治安維持法と警察力によって、当局に反体制的とみなされた団体や
個人とともに関消連や東京学消などの生協は弾圧され、解散させられていきます。

(1 ) 関消連、東京学消への弾圧強化、解散へ
 関消連は毎年、産業組合中央会が取り組まないICA提唱の「国際協同組合デー」に取り
組みましたが、1928年の国際協同組合デーの集会等の行事は治安維持法に基づく警察の判
断で禁止されます。関消連は翌年の国際デーに「帝国主義戦争反対」のスローガンを掲げ
ますが、当時の生協では唯一のことでした。戦争反対をうたっていた共産党なども解散状
態であり、関消連も以降、公に反戦を掲げることはありません。しかし、1932年の「米よ
こせ」闘争で成果を上げ、日消連として組織が拡大すると幹部の拘束など弾圧がいっそう
強まりました。
 日消連は1934年の全国大会で全代議員が警察に検挙、拘束され、37年には、日消連幹部20余名がいっせいに検挙されます。そのような弾圧が続くなか38年、活動の中心であった
関消連は弾圧により、ついに解散させられます。関消連傘下の共働社や城西消費などは家庭購買へ組織統合し、生き残りをはかることになります。
 東京学消も満州事変以降、特高警察の干渉が激化、学生の検挙が続きました。たまたま
ですが、私が早稲田大学生協の専務理事に就任した40年ほど前のことですが、戦前の学消
の学生委員だった当時の自民党の石田博英議員に「警察に世話になったことのない者が
専務とはおかしい。僕たちのころは組合の店にいるだけで警察にひっぱられ、つど賀川組
合長に引き取ってもらったものだ」という話をうかがいました。当時は早稲田では新聞部
も雄弁会も解散させられ、学消だけが学生のあつまる場であり、その店にいるだけで”危
険分子”とみなされたそうです。
 このような弾圧で36年、法政、明治支部事業停止、37年早稲田支部、40年東大赤門支
部が解散しますが、その解散は治安警察法による強制で、産業組合法による解散手続きは
その後にやられました。(つづき参照)

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「生協と戦争、平和―その歴史」第1部ー2

第2回
第1部 戦前戦中の生協-2

2、「新興消費組合」の誕生と発展
 大正期に入ると第1次大戦が勃発(1914年)、日本はドイツ領の青島占領、ロシア革命(17年)があり、日本はシベリア出兵をし、国内では米騒動が起きるといったなかで労働運動なども盛んになります。
 1889年(明治22年)に制定された大日本帝国憲法では「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」とし、国民は天皇の「臣民」であり、主権者ではなかったのです。議会は開設されていましたが選挙権は一部の富裕層に限定され、婦人は選挙権がないだけでなく治安警察法で政党など結社への参加なども禁止されていました。
 そのようななかで吉野作造が「民本主義」をとなえ、普通選挙権、婦人参政権の要求運動などが盛り上がり、「大正デモクラシーの時代」と呼ばれました。婦人参政権獲得運動では、のちに生協運動にかかわる平塚らいちょうや奥むめおが市川房枝などと新婦人協会を結成してがんばります。
 1925年、普通選挙法(男子のみ)が制定されますが、同時に治安維持法が制定され、以降、共産党や運動団体、個人への弾圧が強化されます。治安維持法は治安警察法に上乗せして個人の思想まで取り締まるもので、その権限を持つ特高警察は憲兵隊とともに戦争遂行の尖兵となります。
  
(1) 家庭購買組合など市民生協の特徴
 <婦人の参加やプライベート商品など>
 大正デモクラシーの機運が盛り上がるなかで1919年、吉野作造を理事長とする家庭購
買組合が東京のキリスト教関係者を中心にして設立されます。
 家庭購買では“組合員主義”のもと婦人部を設置、啓蒙誌「ホームユニオン」を発刊する
など婦人の自覚と社会参加を促す活動を進めました。商品や生活問題の講習会などのほか
文化活動として毎年「団らんの夕べ」を日比谷野外音楽堂で開催し、1933年には1万人を
超える盛況でした。事業面では関東大震災後、店舗を広範囲に展開、「地域一番店」をめざ
し家具や呉服なども扱い、都内にチェーン展開しました。店では生鮮食品を扱い、組合印商
品(現在のコープ商品)の開発など生協らしい取り組みを展開しました。
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生協と戦争、平和―その歴史(1)

斎藤嘉璋
第1回

生協と戦争、平和―その歴史
<平和とよりよい生活のために>


<はじめにー歴史に学ぼう>

 戦後70年にあたり安倍首相の「首相談話」は韓国、中国をはじめ世界の国々の注目を集め、その後久しぶりに開かれた日中韓首脳会議の共同声明でも冒頭に「歴史を直視し」とうたわれました。安倍首相の「談話」は「歴史を直視」したものとは考えられないものでしたが、一方で私たち自身も戦争の歴史について振り返り、教訓を学ぶ必要があると考えました。いま歴史認識で問題になっているのは特に中国や韓国などとの関係なので、日清・日露戦争の明治期から、生協の歴史でいえば日本に最初の生協が誕生したころから振り返ってみたいと思います。
 私は初代会長の賀川豊彦が亡くなった年に日本生協連に入職しましたが、当時の木下保雄専務理事(戦前、家庭購買組合で働き、戦中は全国消費組合協会に勤務)に「日本の生協の歴史は誕生以来、戦争に強く影響され、翻弄された歴史だった」と聞かされました。その後、日本の生協運動史の編纂などにかかわり、そのことがわかり、賀川さんや中林貞男会長が「平和希求こそ生協の理念」と強調していたことが理解できました。
 日本に最初の生協が誕生したのは1879(明治12)年です。明治期には日清戦争、日露戦争があり、その影響を受けながら地域、職域の生協だけでなく共済、医療など各種生協が誕生しました。一方で労働組合と一体だった労働者生協は解散させられました。大正期には第1次大戦後の恐慌や労働運動の高揚などと大正デモクラシーといわれる潮流のなかで、コープこうべなど現在につながる市民生協や労働者生協が誕生しました。
 生協と戦争の歴史を考える場合、もっとも大きな影響があったのは、満州事変(1931年)から始まる15年戦争で、そのもとで生協の諸活動への政治的締め付けが強まり、労働者生協や学生生協などが解散に追い込まれ、太平洋戦争(1941年~)に入ると市民生協群も組織・事業のすべての面で戦時体制の締め付けを受け、最後には空襲等の直接的な被害もあり、壊滅状況になります。
 第1部「戦前・戦中の生協運動」では、簡単に日本の生協の創成期、明治期にもふれて太平洋戦争まで(戦前)と太平洋戦争期(戦中)の戦争と生協の歴史の特徴について述べます。 第2部「生協の平和活動の歴史」では、その戦前・戦中の教訓から「平和とより良い生活のために」を基本理念にして発展してきた生協の平和活動の特徴を述べます。
 生協はなぜ戦争に反対し、反核・平和の活動に取り組むのか?この歴史に学ぶことで理解がふかまることを期待いたします。
第1部 戦前・戦中の生協運動

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「生協の平和活動の歴史」2

斎藤 嘉璋
「協同組合塾」での話の最後に「最近気になること」として、安倍総理の「侵略戦争」に関する姿勢、橋下維新代表で問題になっている「従軍慰安婦問題」、憲法問題などについて触れた。麻生副総理のナチスに習いたいという発言をふくめ、政治家の歴史認識には恐ろしさを感じる。しかし、諸外国から見ればそんな政治家に政治を任している日本国民の歴史認識に問題があることになる。今回「平和活動の歴史」を語ったが、「戦争の歴史」をもっと語り合う必要があるのでは感じています。

「協同組合塾」講演要旨
「生協の平和活動の歴史」2

3、生協の反核・平和活動の歴史
            別紙「生協と平和歴史年表」、史料「反核・平和の活動」参照--不掲載。
1) 日本生協連中心の「反戦・平和」の取り組み(1945~1976年)
日協同盟は1949年に「平和擁護300万署名」に取り組みました。日本生協連は54年のビキニ水爆実験のあとICAのパリ大会に代表を送り原水爆禁止の決議を提起し、57年のストックホルム大会でも同様のアピールをしました。
60年の安保条約の改定問題ではそれが戦争につながると反対し、65年にはベトナム戦争反対の決議をしました。会員生協も日本生協連と同様に反戦・平和あるいは原水爆禁止で組合員に訴える等の取り組みを続けました。しかし、60年安保闘争を除けば他団体と共同して大衆的な行動をとるといったことはあまりしませんでした。原水禁運動も1963年に原水協から社会党・総評が脱退するなど盛り上がりを欠きました。

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「生協の平和活動の歴史」1

斎藤 嘉璋
ヒロシマ、ナガサキでの平和式典と原水爆禁止世界大会が間もなく開催されます。かっては10年あまり続けて参加していたのですが、3年前に久しぶりに参加してからは現地に行っていません。せめて生協の若い人達にその歴史を伝えるくらいのことはしたいと思っていたところ、7月にその機会を得ました。その折(日本生協連の「協同組合塾」での勉強会)の報告要旨をまとめましたので掲載します。

協同組合塾での講演要旨
                         2013年7月 斎藤 嘉璋
生協の平和活動の歴史

1、“平和“は日本の生協運動の理念
 1945年、終戦直後の11月に日本生協連の前身組織・日本協同組合同盟(日協同盟)が創立されます。創立総会で賀川豊彦はじめ戦前からの協同組合のリーダーたちは300万人をこえる犠牲者と国土の荒廃をもたらし、生協運動も壊滅させた大戦からの復興と再生への思いをこめて「本同盟は協同組合の普及発展を図り民衆生活の維持安定及文化の向上を期し以て民主主義的平和国家を確立し更に協同組合の国際的結合に依る世界平和の実現を目的とする」(規約第4条)ことをうたいます。
日協同盟は綱領や運動方針大綱で民主主義と平和な日本の建設、そのための協同組合運動の発展、統一と団結の大切さをうたいました。
 1951年、日協同盟は生協法に基づく生協の連合会として日本生活協同組合連合会(日本生協連)を創立、活動を継承します。日本生協連は綱領で「世界平和の確立」、創立宣言で「平和と、より良き生活こそ生活協同組合の理想であり」「最大の使命」であるとうたい、「平和宣言」を採択します。日協同盟の反戦・平和の理念を引き継いだものですが、ちょうど朝鮮戦争がはじまり、日本がその前線基地となるといった切迫した情勢がありました。
 創立宣言で使われた“平和とより良き生活のために”は、その後長らく日本生協連はじ
め全国の生協運動のスローガンとして使われます。そのスローガンは国際学連のスロー
ガン“平和とより良い未来のために”から転用して東大生協で初めて使われました。東大
生協の学生理事で日本生協連設立準備委員であった福田繁さん(のち日本生協連専務理事)
が提案したものですが、発祥の地である東大生協はじめ大学生協では「生協は生活が先の
方がいい」と「より良き生活と平和のために」をスローガンにしていました。私の学生の
頃の早大生協も「生活―」でしたが、日本生協連に就職すると「平和が先だから」と注意
されました。賀川さんや中林さんの強い想いもあったと思います。

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改憲勢力阻止のアピール

紹介ー斎藤 嘉璋
7月6日の朝日新聞は参議院選に向けての世論調査の結果「自民、維新、みんな、公明4党の獲得推計議席は90前後に達しており、(現有議席と)単純に足し合わせると162前後に近づく。」と報道しています。162議席は定数の3分の1であり、憲法改正が可能になるということです。早稲田大学の先輩たちのアピールを紹介します。



参院選では改憲勢力の伸長を阻みましょう
     1950年代に早稲田大学で活動された諸兄姉へ

 梅雨はまだ明けませんが、真夏のような暑い日々が続いております。皆様、いかがお過ごしですか。
私どもは、昨年5月8日、早稲田大学で「第2次早大事件60周年記念の集い」を開催させていただいた実行委員会のメンバーです。その節は多大なご協力をいただき、ありがとうございました。おかげさまで「集い」は成功裡に幕を閉じることができました。
 さて、皆様ご存じのように来る7月21日(日)に第23回参院選挙が行われます。これに向けて各政党は公約を発表しましたが、安倍政権与党の自民党はその中で「憲法改正に積極的に取り組んでいく」と述べ、改定の中身として①天皇を元首とする②集団的自衛権を含む自衛権の名の下で国防軍を設置する③憲法改正の発議要件を「衆参それぞれの過半数」に緩和する、などの点を挙げています。
 自民党に、やはり改憲を目指す維新の会などの政党を加えた改憲勢力が、こんどの参院選挙で過半数を占めることになれば、改憲に向けた動きは一気に加速するでしょう。6月23日に行われた東京都議選では自民党が圧勝し、参院選挙に向けて弾みをつけました。

 私たち、1950年代に早稲田大学で学んだ世代は、在学中、さまざまな課題を掲げた運動に関わりました。まさに当時の早稲田は、東大と並んで学生運動の拠点でありました。当時の学生運動を体験した政治学者の高橋彦博・法政大学名誉教授(早大政経中退・法政大学大学院修了)は「50年代初頭の学生運動は、学生たちのイデオロギー過剰な演説や決意表明とは別に、公布され施行された新憲法の定着過程を担う大衆運動の役割を果たしていた」(『「週刊金曜日』2002年7月26日号)と位置づけています。
 私たちの、青春を賭けたあの運動こそ、人類の叡智の結晶とまで言われ、戦後民主主義のバックボーンとなった日本国憲法(平和憲法)を国民の間に定着させるための闘いであったというのです。
 しかし、私たちが今、直面しているのは、そのバックボーンが解体されかねないという危機的状況です。私たちのこれまでの全生涯が否定されてしまうようような気がして落ち着きません。私ども実行委のメンバーは、戦後民主主義を敗北させてはならない、孫たちを国防軍の一員として戦わせてはいけない、と考えます。

 1950年代に早稲田大学で活動された諸兄姉に訴えます。
 参院選では、改憲勢力のこれ以上の伸長に歯止めをかけましょう。護憲勢力を1人でも多く増やしましょう。私たちはもう若くはありません。私たちにとっては、いわば“最後の決戦”です。あらゆる機会をとらえて、家族や友人、知人に働きかけましょう。

            2013年6月27日
     「第2次早大事件60周年記念の集い」実行委員会
  岩垂 弘 岡本好廣 関千枝子  芹澤寿良 高倉三郎
  高橋英夫 豊吉重充  中藤泰雄 増田興一
    

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なぜ   フクシマか

大きい文字[haru3]

なぜフクシマか 
  53基の原発、世界有数の地震国にて

フクシマ抜きの政治ってなんですか
フクシマを忘れてどんな未来ですか
被災者の目を通してみた原発
被災地の様子が語る原発の実相

被曝者の人に耳を傾けたい
水素爆発の振動で畳が盛り上がり、放射線に追われて避難した人たち
イデオロギーではなく命に直結する事実認識の問題として
原発を推進する日本に生きるのか、脱原発の世界に生きるのか いま岐路。

自分お待ちにに避難したAさん・同じ集落の人たちの証言に耳を傾けたい
避難したAさんにつながる16万人の避難者の一人
佐藤紫華子作 「原発難民の詩」 を受け止めたい   
救いたまえ
クリーンエネルギーと唱われて
もてはやされて
今ここに
無残な姿を曝け出して
いるのは何故?

絶対と完璧などは
あり得ない
ゆめゆめ心して
みじめな姿を
救いたまえ

天国が地獄と化した
絵巻図
今も灼熱
その中で働く人々の
命を救いたまえ

それでも「日本の原発は世界1安全」と世界に売り込むのですか 
朝日新聞出版  1100円  佐藤紫華子(しげこ) 1928年生まれ 
3月11日の原発事故で富岡町から避難、9月からいわき市の仮設住宅に住む 
私の町に避難されたA夫人の20年来の華道、茶道の師匠 尊敬する方
          

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賀川豊彦に関連してー「わが妻恋し」ほか

斎藤 嘉璋
賀川豊彦に関連してー「わが妻恋し」他

*先に掲載した「もう一つの賀川豊彦像」の記事について「賀川豊彦のご長女のお名前は、賀川富美子さんではなく、冨沢千代子さんです。結婚後の姓と名前がごっちゃになって記憶されているのではないでしょうか。」とのコメントをいただきましたが、その通りですので訂正いたします。手元にある賀川関連の本を調べ、記述の間違いを確認しましたが、困ったことになぜ間違えたかわかりません。訂正記事のついでに、賀川関連の2冊を紹介させていただきます。

*「わが妻恋し」(加藤重著、晩聲社)
賀川豊彦の妻・賀川ハルの伝記。賀川豊彦は1960年4月に亡くなるが、日本生協連の会長だったので、その年に日本生協連に入った私は機関誌「生協運動」の取材のため当時の幹部に連れられ松沢のご自宅にハル夫人をお訪ねし、いろいろとお話を伺いました。新川の貧民窟時代に結婚されたハル夫人のお話は、この人があって賀川ありの感を抱かせるものでした。ハル夫人はその後、日本生協連の顧問として総会などに出席もされましたが、ちょうど31年まえの1982年5月に逝去されました。ハルは豊彦がベストセラー「視線を超えて」を書いた年に自分も「貧民窟物語」を出版し、平塚らいてうや市川房枝などの「新婦人協会」に参加し、神戸で「覚醒婦人協会」を結成するなど、夫人としての内助だけでない活動を展開しています。この本はそのようなハルの生涯を書いた本で、賀川豊彦を知るためにも貴重な1冊です。
「わが妻恋しいと恋し・39年の泥道を・ともにふみきし妻恋し、
工場街の裏道に・貧民窟の街頭に・ともに祈りし妻恋し、
憲兵隊の裏門に・未決監の窓口に・泣きもしないでたたずみし・わが妻恋しいと恋し(中略)
財布の底をはたきつつ・書物数えて売りに行く・無口な強き妻恋しーー(後略)(1950年、賀川豊彦)

*「賀川豊彦」(隅谷三喜男著、岩波現代文庫)
コープ出版から賀川豊彦の著書「友愛の政治経済学」(2009年)に続き「協同組合の理論と実際」が出版されました。後者には「賀川豊彦・人と働き」があり、賀川と多彩な活動の概要がわかるようになっていますが、賀川の直接書いたものはその基礎に宗教性と主観哲学があるためなかなかわかりづらいと思います。私は賀川の協同組合論などを読むと「社会科学的でない」ということで理解ができきない、というか抵抗感をつよく感じました。
この本の著者・隅谷三喜男(東大教授、東京女子大学長など)は労働経済学が専門であり、この本は賀川についての「社会科学者の手になる本格的評伝として唯一の書」(解説)といわれます。賀川は救貧運動からはじまり労働運動、農民運動に力を注ぎましたが、それらから手を引いいたあとも協同組合については亡くなるまでかかわっていました。諸運動との関わりや決別、その思想的政治的背景など労働運動史に詳しい筆者の評価は賀川個人の歴史としてだけでなく勉強になります。ただ、協同組合に関する記述は少ないので、その点はコープ出版の前記2冊が参考になるでしょう。
 貧困や格差を憎み、反戦平和を願った賀川が現在の日本の動きをどうみているか?協同組合を社会改革の柱の一つとしその社会的使命・ミッションを強調してやまなかった彼の想いをどういかすのか?読みながら考えたいものです。

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もう一つの賀川豊彦像

00-賀川像正面 019 (2)
斎藤 嘉璋
<このブログは都合で休みが続き申し訳ありません。新しいメンバーを加え出直す
ことも検討していますので、しばしお許しください。なお、この記事は「久友会だより」
なるものに載せたものですが、ブログで公開せよとのご意見もあり掲載します。>

消えたもう一つの賀川豊彦像
                       写真と文  斎藤 嘉璋

 渋谷のコーププラザの玄関フロアには賀川豊彦像がある。他にもあるのではないかと思うが、私が知っていたもう一つの賀川像、東京医療生協の中野総合病院の前の桃園川緑道脇にあったその胸像が姿を消した。残念ながら銅のかたまりに還元されてしまったようである。
 すでにこの件は一部に知られているようであるが、昨年、たまたま撮った写真と一緒に私の因縁話として記録しておきたい。

因縁話① はじめての生協、賀川豊彦
 半世紀も前の話。私が高校を出て上京し転がり込んだ兄たちの下宿は中野区橋場町の「中野組合病院」(まだ「総合病院」ではなかった)のすぐ裏手にあった。風邪をひいてそこを訪ね、初めて「生協」というものを知った。病院には創業者であった賀川豊彦のことなども掲示されており(像はまだなかった)、賀川が小説家ではなく生協なるものに関係があるようだとおぼろげな認識もした。
 その後、1960年に日本生協連に入り、最初の仕事がその春に亡くなった賀川豊彦の雑誌「生協運動」での追悼記事の編集だった。認識不足のまま、ハル夫人の思い出話などを記事にする手伝いをした。中野組合病院は医療生協としてもっとも古い歴史を持つ日本生協連会長の賀川が関わった病院だということもあり、日本生協連は厚生年金還元融資を使っての病院の建替えや経営不振・再建への支援など積極的な協力を続けた。そんな関係で院長だった富沢千代子さん(賀川豊彦の長女)にお会いすることなどもあった。
 日本生協連で大変お世話になった元専務理事の勝部欣一さんが入院、亡くなったのがこの病院であり、お見舞いに行った日に勝部さんが亡くなったといった因縁もある。私個人の因縁ではなく、中野組合病院の経営再建問題では1973年の日本生協連総会で再建支援を決定してから全国課題として取り組まれたので、85年に日本生協連が手を引くまでの間に常勤役員として派遣された方も5名を超え、佐久病院などから派遣された医師なども含めこの病院と因縁の深い方は大変多い。日本生協連などの再建支援が同生協の運営問題などで課題を残したままだったこともあってか同生協はその後日本生協連を脱退し、東京都生協連からも数年前に脱退した。今回の賀川像問題もそのことと無縁ではないように考えられるが、ここではそのことにはこれ以上触れない。


因縁話② 桃園川緑道のスケッチ
私の因縁話は趣味の絵との関係である。旧高円寺六丁目生協の理事長だったKさんが絵を趣味とし、その絵を東京都生協連に寄贈したいということで、当時、同連専務だった浅井さんとKさん宅に伺ったことがある。このKさんが地元ということもあり東京医療生協の理事を長らく務めておられ、賀川ファンだった。同生協が日本生協連を脱退して数年たってからだったと思うが、Kさんから「中野組合病院は賀川さんの像を追い出して新渡戸さんと取り換えた。おかしい、何とかならないか」という話があった。私は「新渡戸稲造は創業時の組合長だから非難はできないでしょう」と答え、あとは絵の話になった。
 私がカルチャーセンターのスケッチ仲間と桃園川緑道のスケッチで賀川像に出会ったのは昨2011年の2月だった。桃園川は杉並の天沼からはじまり、北阿佐ヶ谷を通って南下し、中野で東京都生協連の「生協会館」の脇を過ぎて中野総合病院の前を通る。実は、私は病院の裏にあった下宿から学生寮などを経て、阿佐ヶ谷北に住み、そこから結婚して移ったのが天沼で、それぞれ桃園川から近いところだった。スケッチの会は今は暗渠の緑道となっている桃園川を何回かに分けて歩いたので、昔の住いや中野総合病院の近くでもスケッチすることになり、桃園川緑道脇にあった賀川像(写真)にも出会うこととなった。
 その時のスケッチは昨年3月はじめにブログ「かしょうの絵と雑記」に掲載し、賀川像の写真もあわせて載せてコメントも書いた。かって聞いたKさんの話を思い出したが「賀川さんは病院の中よりも多くの人に会えるここの方がいいかもしれない」とも考えた。その像の「組合長 田村一」による碑文には、賀川が相互扶助の愛の精神にもとづき昭和7年に医療生協を設立したこと、昭和40年に新病院を竣工したこと(前記の年金還元融資活用)、創立35年目の創立記念日を迎えてこの像を建てる、と書かれていた。その記念日は5月27日で、自分の結婚記念日だったことにも因縁を感じた。

因縁話③ 絵のブログの因縁
 それから1年たって今年の春にまた花園川緑道をスケッチした。実は生協のOB仲間の絵の会は東京都生協連友の会のサークルとして数年前から生協会館の1室で月1回の例会をもっており、今度はその仲間と一緒のスケッチだった。その絵もブログに掲載した。
 その後しばらくたった6月、私のブログにTさんという方から、中野の桃園川緑道の近くに住んでいること、スケッチを趣味にしていること、賀川と中野総合病院に関心をもっているというコメントが載った。メールアドレスも掲載されていたので、さっそく機会があれば会って趣味の絵のことや賀川のことなど話したいとメールした。しばらくしてTさんから中野総合病院に入院していたということで入院中に病室から描いたスケッチが添付されたメールをもらった。そこには「賀川像は昨年撤去されたそうです。スケッチは像があった桃園川緑道ですが、像はありません。像はどこへ行ったのでしょうか」とあった。

 賀川豊彦像を惜しむ
 このメールを見たあと、月1回の都連の生協会館での絵の会のおりに現地に行ってみると賀川像があった桃園川緑道脇の土地は何か工事がはじまるらしく囲われ、像は無くなっていた。そこで思いついて、都連専務に「病院がもし扱いに困っているようなら、都連が預かって生協会館においたらどうか」と提案した。その後しばらくして都連から「提案を受け止め、病院の責任者に話をしたところ『工事のため撤去し、業者に処分をまかせた』とのことです。残念ながら間に合いませんでした」という返事をいただいた。
 メールをもらった地元のTさんにそのことを知らせると、彼も賀川像のその後を調べており、伴武澄さんのブログのことを教えてくれた。伴さんは09年の「賀川豊彦献身100年」の記念事業に協力していた共同通信の記者で、私も一度会ったことのある人だった。当時、伴さんの主宰するブログ「think kagawa」は、私も賀川および賀川献身100年事業を知るために良く読ませてもらっていた。(現在もインターネットで「thinnk kagawa」をクリックすると伴さんの賀川に関する記事が読めます。)
 その伴さんはすでに昨年12月に賀川像が撤去・廃棄されたことを知り、ブログに「中野総合病院前の胸像はすでに歴史的意味をもつ存在であったはずである。日本が貧しかった時代に貧しい人たちのために病院を設立した先達の偉業を象徴する存在なのである。」として「そんな胸像を安易に葬り去った中野総合病院はもはや地域医療を担う資格はない。」と書いていた。遅ればせながらそのブログを読み、生協人として、また個人的な因縁も多かったのに何もできなかった者として、あらためて無念さを覚えた。賀川さんと消えた(消された)像にお詫びしたい。
 <付記>「久友会だより」NO70(09年12月)に渋谷のコーププラザ1階にある賀川豊彦像の写真とその製作者・小杉三郎さんの紹介記事が載っています。日本生協連のこの新会館建設計画を知り、賀川像を作成してはどうかと乾漆像の権威である小杉さんを紹介されたのは、当時、大阪北生協理事長の柏木尚さんでした。当時、常勤役員としてその話を推進し、現賀川像を実現できたことを改めて良かったと思っています。この像は中野総合病院にあった銅像とちがい乾漆像です。火災などに会わず、末永く多くの人に愛されることを祈っています。

 

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 (haru3)

著書名「原発とは結局なんだったのか」-今福島で生きる意味-
       福島大教授 清水修二著  東京新聞  定価1400円+税

推薦する理由 時宜に適したもってこいの著作といってよいと思います。私たち市民の問題点をも指摘し私には目

からうろこでした。原発事故後の対応に身を投じつつ具体的かつ鳥瞰的立場で鋭い問題提起をしています。昨11

月 原発事故被災地調査団長として、ベルラーシ・ウクライナを訪問(福島県連会長熊谷さんも同行)し2012

年3月11日「原発いらない!福島県民大集会」で呼びかけ人代表を務めました。2012-3まで福島大副学長

をつとめています。氏の専門は財政学・地域論です。

若干のコメント

私流で単純化を恐れずに言えば一般に社会の組織は「権威」によって作られています。 原発過酷事故は 初めに

「原発ありき」を権力者が決定して演繹的にシステム化するピラミット型のもたらした権威です。これに対し命・

くらし・環境・そのための経済・継承発展創造・未来を願う人間の視点に立つ側の権威があります。それが組織な

らその構成員が帰納的に練り上げていく民主主義の権威です。生活にかかわる組織の権威です。科学もまたもともと帰納で積み重ね発見創造されてきました。氏は「福島の痛みをわが痛みとすることを」出発点にすることでの時代の転換に希望を見出しています。その科学的根拠を示し福島(日本)で生きる意味を提示し続けています。ぜひ一読をお勧めします。(高橋晴雄)

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「くらしと協同」合併特集号を読んで(続)

 斎藤 嘉璋
生協の合併の是非をめぐる「争論」の2番手に広島大教授の田中秀樹さんが登場します。田中教授の県域生協・生協の規模論や事業連合論は多くの点で私も同意できました。購買の協同である購買生協は「規模の経済」(と運動の統一)を求め県内合併で県域生協となり、さらに事業連合づくりとなったこと、「規模の経済」は業態によって違うということの指摘は正しいと思います。しかし、事業連合問題では納得できない点があります。
事業連合について田中教授は「単協主権で単協の事業のいくつかの機能については基本的に連合で展開しようということですから、商品機能が中心になる」として、店舗運営機能までもつことになると「チェーン本部を事業連合が持つことになり」それは「本来の事業連合ではない」「合併(する方)が合理的になる」と主張されています。
前回の稿の冒頭で大友さんの本「生協の持続的発展を願って」を紹介しましたが、彼はそこで他のスーパーが成功させているコーペラティブチェーンの例などを紹介しながら事業連合における店舗事業のあり方を論じています(それらの所論はこのブログに掲載されています)。田中教授のいう「本来の事業連合」は「単協主権のもとにある」ということだと思いますし、私も最終的な権限と責任を単協が持てないような組織は事業連合ではないと考えます。しかし、事業連合での店舗機能がコーペラティブチェーンでなくレギュラーチェーンに近いものであっても、即「合併」とはならないやり方はあると思います。

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「くらしと協同」合併特集を読んで

斎藤 嘉璋
「くらしと協同」合併問題特集を読んで
くらしと協同の研究所の「くらしと協同」秋号が「生協の合併―是か否か」を特集しました。このブログでは大友弘巳さんが首都圏3生協の合併の是非について何回も投稿し、その主要な主張は「生協の持続的発展を願って」(あけび書房刊)に収録されています。多分、この特集の内容については大友さんが大いに意見があるところと思いますが、彼は今体調を崩しているので、同じようにこのブログに合併問題で見解を書いたことのある私が感想を述べることにします。
このブログの主宰者である大友さんがしばし休むということで私の投稿が続いており、少し気が引けていますがお許し願います。
特集「生協の合併是か否か」は「争論・協同を語る」ということで関西大の杉本貴志教授が司会進行にあたり、まず京都大の若林靖永教授が語っています。
杉本教授は総論で「日本の生協運動は地域に密着した組合員中心の組織と事業をつくりあげてきた」が、それは生協法の県域規制に「やむなく対応した結果でもあった」と述べています。「県域規制や員外規制がなかったら地域に密着した組合員中心の組織と事業を展開できなかった(しなかった)かもしれない」という評は他でも聞くことがありますが、市民生協群の誕生と発展期にその現場で事業と運動に携わったものとして異議があります。「地域に密着した組合員中心の組織と事業」は私たちが望ましいと考えた姿・理念であり、生協の誕生、発展期は区や市を超えることでも激論があったものです。人々のくらしと協同は地域社会にあるもので、協同する人々は多いほどいいー地域での組織密度が高いほどいいという考えです。規模と密度がたかまり県域規制が現実問題となるのは「地域に密着した組合員中心のー」が弱くなったのではといわれる、最近の10数年前からだと思います。

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映画「東京五人男」と生協

「斎藤 嘉璋」

終戦直後につくられた映画と生協
 いまNHKでは「山田洋次の選んだ名作100選」の放映を続けている。その喜劇映画シリーズで7月に「東京5人男」が放映された。先日、日本生協連のS君から「終戦直後の生協の様子がわかる映画ですから、ぜひ見てください」と録画DVDを渡された。それを見て驚いた。
 まず、その映画が1945年8月の終戦直後に企画・製作され、11月にはクランクインし、46年の正月3日に日本劇場で上映されているということ、焼け野原になっている東京の実景の映像からもその映画づくりの素早さに驚いた。そして、そこに「桜ヶ丘生活協同組合」が誕生し、不人気な食糧配給所にかわって住民の希望の星になる姿をみて嬉しいショックを覚えた。
続く
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韓国生協訪問記2

「斎藤 嘉璋」

韓国生協の特徴―「倫理的消費」をかかげて

 韓国のICOOPグループの年次報告書の表紙(写真)には「倫理的消費を選ぶ人は美しい」と生協の理念がうたわれている。その1ページ目には「生協とは人と人との協同を通して食の安全・安心、教育、育児、女性、環境、農業などに関わる問題について組合員自らが対策を作っていく事業体です。」とうたい、店舗(「自然ドリーム」と呼んでいる)では「産直による安全安心の環境にやさしい農産物」「お母さんの視点での商品選定」「社会の食品安全基準」づくり、「私と隣人、そして地球を生かす倫理的消費を「実現します」とうたっている。めざす「持続可能な社会づくり」は日本生協連の理念と共通する。
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韓国生協訪問記

斎藤 嘉璋

意欲的で元気なICOOPグループ
 9月17日から3日間、韓国を訪問した。拙著「現代日本生協運動史」(新書版)の韓国版が出版されたのを機会に、翻訳・出版をした韓国の生協グループ・ICOOPが企画した研修会に講師として招かれたためである。
 韓国には1987年と1995年に訪問しており、今回が3度目である。87年の時は市民生協グループの有志の企画だったが、皆さんとは別に私は初めて日本生協連の幹部が訪問したということで韓国消費協同組合中央会で日本の生協の現状について報告、交流した。当時、生協法制定要求運動が始まっており、日本の生協法とその規制条項などに関心が高かった。2度目の95年は「韓国平和の旅」の企画であり、生協も訪問したが、植民地時代の施設見学や慰安婦問題などの交流だった。
 今回は講演をしたICOOPグループの役職員研修会の前後に施設見学と幹部との交流ができた。もう15年以上も前のことなので前回と比較するのは問題かもしれないが、今回の第一印象は韓国の生協は「元気で、意欲的だ」ということだった。

01-韓国 講習会全体
ICOOPでの講演会風景(講師は折戸さん)
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haru3
つづき
他にも『原子力正しい理解で豊かな暮らし」などがありました。
   町には原子力の展示ショウルーム・体育館、町庁舎、駅舎など
見事な建物が目立ちます。
人影は全くない。「安全神話と札束」で籠絡された原発立地自治
体の様子が見てとれました。
そのつけは3月11日にはじまる過酷事故。双葉町民7000人
は故郷を奪われチリギリになり 1年半後の今も帰る見通しも
なく、崩壊した家屋の街並を静寂が覆っていました。
まるでゴーストタウンでした。ついで用件)を終え帰路浪江町
請戸の海辺を通りました。
s-2012-  6-11-21 福島第1原発 現地にて 047
s-2012-  6-11-21 福島第1原発 現地にて 064
s-2012-  6-11-21 福島第1原発 現地にて 062
上写真の付近には付600軒の家々があったといいます。家・車・船・人々のつながりは一網打尽。何代に渡って汗してきた農地も漁港も林も、お墓もお寺も・お店や学校も・・・・
また地震・津波で家財等に体を挟まれて逃げることができないまま緊急避難から取り残された住民たちがいました。後で避難所をたずねた東電の幹部に浪江町の人たちは詰め寄ったといいます(小説新潮刊25人の証言)。6月21日 犠牲者の霊に 私らは手を合わせました。生きたまま取り残された…むごすぎます上写真    続く

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(Haru3)
原発は イケン  違憲 
ノーモアヒバクシャ       

〇若い人たちが   目指すは3世代一緒に
東京新聞は1面トップで大飯原発再稼働反対の国会周辺デモが膨らんできたと報じた。20万人を超えたという。一昔前のデモとはずいぶん違っている。ツイッターなどを見て何かできることを、と思って参加した若者の参加も多かったという。千葉から何回もはせ参じた方によると「多くの若い女性が一人で来ているし、キャリヤバッグのビズネスマンも・親子ずれも、老夫婦も一緒に原発反対。こぶしを振り上げるようなことではなく周りの人を大切にしたい気持ちがデモをつつんでいた・・」と。彼女は手作りのゼッケン「LOVE!ハイロ¬¬」をつけた。デモは抑制もきいていたし党派色もない。それなら一つ私も行こうかなとなっていくでしょう。90歳の瀬戸内寂聴さんも座り込みしたとか。「次代世代に責任を持つ」倫理観を持って生きてきた作家・僧侶ならではのアクションです。四街道もふくめ今をよりよく生きる事を目指す音楽家や芸術家や教育者も宗教家も原発被災者の視点で動き出しています。孫を見て目を細める私ら年配も子供たちがやがて被ばくの後遺症で苦しむようになるのではないかと不安を募らせています。歴史は世代をこえ一緒に手をつなぐようになれば時代は動きだすのを示してきました。それを恐れているのが為政者改憲派であり、原子力村の利権者です。目に余る報道規制・事実隠ぺいはその為でした。NHKはじめマスコミの大飯原発再稼働反対の報道の抑制に如実に示されました。

○ 国民は騙され、目隠しされている。だが事実は消せない。
3・11から1年3ケ月・政府は放射線“収束宣言”の後大飯原発の再稼働に踏み切りました。そんな中私らは6月21日 防御服をまとい福島第一原発からほど近い双葉町と浪江町を訪ねました。警戒地域の双葉町で見たものは原子力宣伝、道をまたぐ大きな固定の看板といくつかの立派な建物でした(下写真
s-2012-  6-30 001
原子力豊かな社会とまちづくり・双葉町JR駅前
明るい未来
s-2012-  6-11-30 079
s-2012-  6-11-21 福島第1原発 現地にて 081

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商品開発 「美アンサー物語」

[haru3]

 生産地と流通、消費、廃棄の関係創造で成立してきた協同組合から内容のある「ありがとう」が消えたとき、協同組合の歴史的使命はどうなるのだろうか・・・・・
  しかし東北大震災の中で示した各生協の戦いは  一人一人に沿って事柄と言葉を交わしながら進めているという。西村君の本で知った。私はふるさとが仙台方面に10回ほど行ったが、うなずけるものがあった。足元で「ありがとう」に示す協同がある限り困難を乗り切っていくのではないか。ほとんど生協の現状に疎くなったものとして期待を述べたい。

 そこで阪神淡路大震災の時の貴重な体験の時書いていたので、いくついつかそのまま掲載したい。

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[haru3]

ふるさとの仙台を訪ねた折、  コープみやぎの人たちと歓談の席上、3・11震災翌朝にはコープこうべ・新潟、九州の生協の方がいち早く支援に駆けつけてくれた感激を語っていた。かって震災で塗炭の苦しみを味わった生協がいち早く駆けつけたのであった。もちろん他の生協からも救援支援部隊が入っていたことは岩手に足をのばしたとき現地で確認した。多くの生協も駆けつけた。
当時業務支援は緊急である。が私が合点したことは、支援とは何をおいてもであった。そして復興主役は被災地であり、被災者であることを踏まえる方向で展開されたこと、ここに心が注がれたことは、かって被災を受けた生協の経験が生かされたからだと思った。

又、支援関係は生協間だけでなく、田老の漁協であったり(コープこうべ)。三陸沿岸の宮古では  宮古市民、宮古の生産者みんなに店を解放した店活動が展開されていた。復興とは町づくりでありであり、福祉を追求していた。これは宮城の石巻のみせでも感じたことであった。
陸奥は私の故郷であり兄弟親戚の犠牲者もあった。、同時にかって  生協の現役時代に世話になった生協であった。
この地で生協が事業活動そのものが社会性を持って展開されていること、「お金を神様」にして規模拡大のみに終始する他の企業と対比できる存在であることをうれしく思いあえて一言述べさせていただいた

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集う・つながる・紡ぐ・絆 ーつながろうCO・OPアクション交流会ー

[西村一郎]

生協の良さに確信
 「震災が私たちに教えてくれたことがいくつかあります。3・11以前から大切にしなくてはいけないことを、再認識させられたことで、社会や暮らしのあり方を見直すことです。また支援を通して生協の良さを、全国の仲間が確信できました。震災からの1年の間で、生協の社会的役割に全国で応えてきました」
 仙台市で3月8日12時半から開始の、「つながろうCO・OPアクション交流会」の会場である。犠牲になった組合員や職員に黙祷した後で、日本生協連の芳賀唯史専務から主催者代表の挨拶があった。芳賀さんの話は続く。
 「生協の課題は、組合員のために、そして地域のために働く職員を、どれだけふだんから育てることができるかです」
  この交流会の目的は次の2つであった。
 ①1年経過の節目にふりかえり交流します。
   東日本大震災から1年経過した時期に、これまでの募金活動、被災地生協や産
地への支援、ボランティア活動、地元地域の被災者支援、節電や防災活動など、
幅広い取り組みを持ち寄ってふりかえります。また全国の生協と被災地生協の組
合員が、お互いに励ましあって交流し「つながり」を再確認します。
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ありがとう考 2

[haru3]

ありがとう考 2

ありがとうの詩 歌集・楽曲集
3,11大震災復興支援企画
発行   河北新報社  定価1000円
022-214-3811

被災地に生協あり
   阪神淡路震災の時「被災地に生協あり」が報道され語られた時、どんなに全国の生協は我がことのように励まされ、誇りにおもたったことか。「生協をやる意味」と「生協で働く意味」をこの一言が示していた。コープ神戸の役職員・全国からはせ参じたボランティアは心からあふれ出る「ありがとう」を自然に使っていた。

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ありがとう  辛酸をなめた震災下の中の人たちから学ぶ  協同はどこから

[haru3]

ありがとう考1
東北大震災の傷は簡単に癒えるものではない。8歳から84歳までの被災者が寄せた詩 が仙台の河北新聞からこのほど 出版された。「ありがとう」という題が付いている その一つ一つに暗がりの中に灯された明かりのような確かさがあった。と福島出身の詩人和合亮一の講評で述べている。

四街道でヘルパーをされているOさんから今朝家に届けるから是非読んでみて、という電話があった。「ありがとう がどんなに深く心に沁みこむかを感じて働いてきた この福祉NPOのひとたちはひきつずき石巻に行って支援している。

私は、閖上や石巻、仙台、陸前高田,山元など・・・・の11歳、33歳、50歳、8歳・・・・・の詩に次々に揺さぶられていった。昨年訪ねた町まちを思い出し、このまちの「詩人」たちに「ありがとう」を私も繰り返していた。

河北編集長はこの本の中で「がれきの下にある気高さ」を感じたと述べている。
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コメントの管理について

[管理人 少老朋友]

この間、このブログに寄せられるコメントが増えていることは歓迎しておりますが、中にはいかがなものかと思われる内容のものもございます。
「コラボ・コープOB」の開設にあたって、運営メンバー9人の申し合わせ事項の一つとして、コメントについては、攻撃的なもの、誹謗中傷的なものなどは管理人の責任で削除することを決めております。
今回、この申し合わせに照らして、該当するものを削除しております。
趣旨のご理解とご協力をお願い申し上げます。

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つなげよう笑顔 ーさいたまコープの震災復興支援ー

寄稿

[西村一郎]

生協組合員の声が復興の励みに
  「石巻市の海岸にある水産物の加工工場は7mの津波に襲われ、1階は全て流されました。
 それでも2階に置いた高価な機械はかろうじて残ったので、余震の続く中で復旧工事をし、11月から製造を再開できました。まだ生産量は被災前の10分の1ですが、少しずつ進めたいと思います。各地の生協の組合員さんからは『待っているよ』とのメッセージをたくさんいただき、大きな励みになりました。生協さんとは30年近い付き合いで、弊社は組合員の皆さんに育てていただき、ご縁があって本当によかったと思っています。震災のあった石巻で初心に帰り、より美味しいものを頑張って作っていきます。引き続きよろしくお願い申し上げます」
 水野食品株式会社専務取締役の水野茂さんからの報告で、作業服を着た水野さんは、ゆっくりと丁寧に話していた。2011年11月6日の広大な「さいたまスーパーアリーナ」の会場で、メインステージで開催された「復興へのとりくみ報告」である。
 前日から東日本大震災復興支援を目的に、さいたまコープと首都圏を中心の8生協が加盟するコープネット事業連合が主催し、「つなげよう笑顔」をテーマにした「コープフェスタ2011」が開催となっていた。取引先の約100社を含む約250団体が参加し、医療生協さいたまが主催する「健康フェスタ」も同じ会場であり、2日間で約10万人が訪れた。なお来賓として、上田清司埼玉県知事、清水勇人さいたま市長、井戸川克隆福島県双葉町町長、伊礼幸雄沖縄県伊平屋村村長も来ていた。
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今年もどうぞよろしくお願い申し上げます

         今年は、国際協同組合年
これまでを振り返り、協同組合のありかた、協同組合間の連帯協同など、「コラボ・コープOB」の場でも共々考え、交流して参りたいと存じます
       
     文字年賀辰

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この子供たちを守りたい・・・どうしたらいいのだろうか?

[haru3]

この子供たちを守りたい・・どうしたらいいのだろうか?・  思案の  四街道住民・年金生活者T
となりの机の子が 消しゴムを落としたので
拾おうと思って 手をのばしたら、
さわるな うつるからって・・・・おばーあちゃん ぼく悲しい・・・


福島の原発事故で千葉県に越して来られた方の事です。原発から9キロの強制避難の方です。我が家でご夫妻と「お茶」したとき、娘が来るからそろそろ帰らなくてはと席をたとうとしたとき・ポツリと私と妻の前で漏らした言葉です。11月22日の事でした。

以来、語った時のMさんの表情とT君の言葉がこびりついて離れないのです。悲しそうな、悔しそうな、言い表せない眼の表情。小さな胸を震わせ、大好きなおばーちゃんに、胸の内を明かしたT君の事が折に触れて浮かんできます。
T君とはまだあっていません。でも僕の孫と同じ年の、千葉市の小学校3年生です。孫がこのようなことにであったらと思うと…すぐにもT君のところに行って抱きしめてあげたい。「僕はいつも君の味方だ、心配するな」と。

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さようなら原発5万人集会 8・19明治公園  統一の力見たり

[haru3]

参加できなかった方のためにすこし長めの様子を記します。(TH)

開会、1時間前なのに続々つづく列。会場広場にかきわけるようにしてやっとたどりつく。正面近くに紙を敷いてすわる。まるでラッシュの車内で座っている感じ。
開会まで周りの参加者の様子をじっと観察、ゼッケンや小旗・ポスターの多彩さにみとれ、ジットしておれなかった参加者の意思を感じた。私の前にはバスで駆け付けた福島の被災者が数百人。避難所から来られた方・苦渋の人生を受け続けている静かな怒りを秘めた人たち。(添付黄色姿写真)

1時過ぎ集会が始まった。記憶をたどり浮かんだ断片を以下記します。
呼びかけ人から。
 鎌田慧・・・野田首相は国連で、原発の安全性を高めて再稼働と開発の方針を述べるという。・・・・核と人類は共存できない。これ以上犠牲者を作ってはならない。アデュー(さよなら原発)。原発のない社会を。1000万署名を・集約の3月24日には集会を・・

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  井上ひさし「言葉よ、ひろがれ」 。

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井上ひさし「言葉よ、ひろがれ」 。

福島過酷原発事故で被爆者になろうとしている日本全土の人たちに

井上ひさしさんが不帰への病床につく2か月ぐらい前、千葉市文化センターで千葉県被爆者友愛会を中心にした講演会が持たれた。

私は幸運にも舞台裏での井上ひさしさんの担当を仰せつかっていた。講演の前後、氏がゆっくりくつろぐ様にする役割といってもよかった。しかしあろうことか氏はむしろ私たちがくつろぐように、ふるまっていた。

氏の地というか自然さというか。笑いも含め、ご自宅付近で求めたものであろうか、いくつかのお土産寿司を被爆者友愛会の旧知の方にふるまっていた。

私はその場面の写真を撮ったり、わきにあった講演レジュメをのぞいたり、今となっては大変失礼なことで、反省ものだが、打ち解けた雰囲気の中で許していただいた。

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脱原発をー三たびの被ばくへの悔恨

[斎藤嘉璋]

 3・11以降、大震災での被災地の状況、なか事故と放射能汚染の報道に接する日々が続き、気が重い。前にこのブログに報告したように生協OBの立場から何かできないかと東協連と東京災害ボランティアネットの取り組み(南三陸町の被災者支援)に協力するなど、ささやかな取り組みを続けてきた。最近は生協OBの絵の会(虹遊会)で被災地支援のチャリティーセールに取り組み5万円を超える募金を南三陸町での取り組みにカンパすることもできた。
そのようななかでもますます気が重いのは原発事故であり、その収束とその先―脱原発が見えてこないことである。どうしてこのような事態を許したのか、個人的な悔恨の念もあり、気が重い。
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