コラボ・コープOB

生協のOB同士で、交流と意見交換を進める場とします。  自分のこと、お互いのこと、生協のこと、世の中のこと、―-協同・平和をめざして。

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生協と戦争、平和ーその歴史」4

斎藤嘉璋
第4回
第1部 戦前戦中の生協 4

(3) 太平洋戦争と敗戦=生協に壊滅的打撃
<徴兵、徴用、疎開、空襲 —>
 太平洋戦争がはじまりフランス領ベトナムからイギリス領マレー、ビルマ、アメリカ保
護領フィリッピン、オランダ領ボルネオなどへ侵攻した日本軍は、翌42年にはミッドウエ
ー海戦で敗北し、本土に初空襲を受けます。以降、アッツ島やサイパンでの「玉砕」など
負け戦が続きますが、大本営の嘘の発表と報道統制のもとで国民は戦争協力にまい進しま
した。
 徴兵された国民は41年200万人が44年500万人をこえ、敗戦時には696万人になりま
す。勤労動員されていた学徒は44年末「学徒出陣」になり、女性も女子挺身勤労令で12
歳~40歳女性に1年間の就労義務が課せられます(就労500万人)。一方、大都市では空
襲の延焼対策として建物疎開がはじまり、学童の農山村地への疎開もすめられます。
 生活必需品の統制強化で取り扱い物資がなくなるなか生協での働き手も徴兵、徴用で失
い、生き残っていた生協も窒息状態になりました。家庭購買は44年に入ると御用聞き供給
を停止しますが、店舗も建物疎開で壊されるといったなかで協同組合学校等の休校をふく
め全面的に事業を一時停止することになりました。
 45年、東京はじめ大阪、神戸などへの空襲が激化し、東京の下町で展開していた江東消費の活動区域は生協施設をふくめすべて焼け野原となり、東京の都心部から山手に展開していた家庭購買も多大な損害を受けます。神戸消費ではあいつぐ空襲で大半の支部と本部の建物や施設を失い、灘購買は空襲で本部等の建物や施設を失った後もバラックで仮事務所を建設しましたが「施設の70%を失い、組合員の80%が戦禍を受けて四散する」状況で敗戦の日を迎えることとなりました。
 44年11月からの全国各都市への空襲とその激化は国のリーダーたちに”敗戦必至”を認識させていったはずですが、45年に入っても軍部と政府は「本土決戦」「一億玉砕」をかかげ、沖縄での島民を犠牲にしての地上戦、ソ連参戦と引き上げや抑留の悲劇、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下と悲惨な犠牲など、さらなる悲劇をうみだしたうえに「ボツダム宣言」を受諾して8月15日終戦となります。
(資料)
・1940年(戦前のピーク時)の日本の生協
   調査組合242組合 組合員数40.3万人、供給高7,452万円、
 1943年の主要生協
   家庭購買     組合員25,530人  供給高564万円
   神戸消費         8,690人     88万円
   灘購買          9,780人     227万円
(つづく)

つづきを表示

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生協と戦争、平和―その歴史 3

第3回
第1部 戦前戦中の生協 3

3、満州事変から日中戦争へ――思想的政治的弾圧
 昭和期に入ると日本は満州事変(1931年)を起こし”15年戦争”の時代となります。
32年上海事件、満州国建国、33年国際連盟脱退と中国華北への侵攻、そして36年2・26
事件と侵略戦争と全体主義=ファシズムへの道を邁進することになります。
 37年、盧溝橋事変から日中戦争となり、南京大虐殺事件など日本は侵略者として国際的
な非難を受けます。この満州事変から日中戦争開戦までの間に、思想的政治的な取締り強
化を目的に制定された治安維持法と警察力によって、当局に反体制的とみなされた団体や
個人とともに関消連や東京学消などの生協は弾圧され、解散させられていきます。

(1 ) 関消連、東京学消への弾圧強化、解散へ
 関消連は毎年、産業組合中央会が取り組まないICA提唱の「国際協同組合デー」に取り
組みましたが、1928年の国際協同組合デーの集会等の行事は治安維持法に基づく警察の判
断で禁止されます。関消連は翌年の国際デーに「帝国主義戦争反対」のスローガンを掲げ
ますが、当時の生協では唯一のことでした。戦争反対をうたっていた共産党なども解散状
態であり、関消連も以降、公に反戦を掲げることはありません。しかし、1932年の「米よ
こせ」闘争で成果を上げ、日消連として組織が拡大すると幹部の拘束など弾圧がいっそう
強まりました。
 日消連は1934年の全国大会で全代議員が警察に検挙、拘束され、37年には、日消連幹部20余名がいっせいに検挙されます。そのような弾圧が続くなか38年、活動の中心であった
関消連は弾圧により、ついに解散させられます。関消連傘下の共働社や城西消費などは家庭購買へ組織統合し、生き残りをはかることになります。
 東京学消も満州事変以降、特高警察の干渉が激化、学生の検挙が続きました。たまたま
ですが、私が早稲田大学生協の専務理事に就任した40年ほど前のことですが、戦前の学消
の学生委員だった当時の自民党の石田博英議員に「警察に世話になったことのない者が
専務とはおかしい。僕たちのころは組合の店にいるだけで警察にひっぱられ、つど賀川組
合長に引き取ってもらったものだ」という話をうかがいました。当時は早稲田では新聞部
も雄弁会も解散させられ、学消だけが学生のあつまる場であり、その店にいるだけで”危
険分子”とみなされたそうです。
 このような弾圧で36年、法政、明治支部事業停止、37年早稲田支部、40年東大赤門支
部が解散しますが、その解散は治安警察法による強制で、産業組合法による解散手続きは
その後にやられました。(つづき参照)

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「生協と戦争、平和―その歴史」第1部ー2

第2回
第1部 戦前戦中の生協-2

2、「新興消費組合」の誕生と発展
 大正期に入ると第1次大戦が勃発(1914年)、日本はドイツ領の青島占領、ロシア革命(17年)があり、日本はシベリア出兵をし、国内では米騒動が起きるといったなかで労働運動なども盛んになります。
 1889年(明治22年)に制定された大日本帝国憲法では「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」とし、国民は天皇の「臣民」であり、主権者ではなかったのです。議会は開設されていましたが選挙権は一部の富裕層に限定され、婦人は選挙権がないだけでなく治安警察法で政党など結社への参加なども禁止されていました。
 そのようななかで吉野作造が「民本主義」をとなえ、普通選挙権、婦人参政権の要求運動などが盛り上がり、「大正デモクラシーの時代」と呼ばれました。婦人参政権獲得運動では、のちに生協運動にかかわる平塚らいちょうや奥むめおが市川房枝などと新婦人協会を結成してがんばります。
 1925年、普通選挙法(男子のみ)が制定されますが、同時に治安維持法が制定され、以降、共産党や運動団体、個人への弾圧が強化されます。治安維持法は治安警察法に上乗せして個人の思想まで取り締まるもので、その権限を持つ特高警察は憲兵隊とともに戦争遂行の尖兵となります。
  
(1) 家庭購買組合など市民生協の特徴
 <婦人の参加やプライベート商品など>
 大正デモクラシーの機運が盛り上がるなかで1919年、吉野作造を理事長とする家庭購
買組合が東京のキリスト教関係者を中心にして設立されます。
 家庭購買では“組合員主義”のもと婦人部を設置、啓蒙誌「ホームユニオン」を発刊する
など婦人の自覚と社会参加を促す活動を進めました。商品や生活問題の講習会などのほか
文化活動として毎年「団らんの夕べ」を日比谷野外音楽堂で開催し、1933年には1万人を
超える盛況でした。事業面では関東大震災後、店舗を広範囲に展開、「地域一番店」をめざ
し家具や呉服なども扱い、都内にチェーン展開しました。店では生鮮食品を扱い、組合印商
品(現在のコープ商品)の開発など生協らしい取り組みを展開しました。
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生協と戦争、平和―その歴史(1)

斎藤嘉璋
第1回

生協と戦争、平和―その歴史
<平和とよりよい生活のために>


<はじめにー歴史に学ぼう>

 戦後70年にあたり安倍首相の「首相談話」は韓国、中国をはじめ世界の国々の注目を集め、その後久しぶりに開かれた日中韓首脳会議の共同声明でも冒頭に「歴史を直視し」とうたわれました。安倍首相の「談話」は「歴史を直視」したものとは考えられないものでしたが、一方で私たち自身も戦争の歴史について振り返り、教訓を学ぶ必要があると考えました。いま歴史認識で問題になっているのは特に中国や韓国などとの関係なので、日清・日露戦争の明治期から、生協の歴史でいえば日本に最初の生協が誕生したころから振り返ってみたいと思います。
 私は初代会長の賀川豊彦が亡くなった年に日本生協連に入職しましたが、当時の木下保雄専務理事(戦前、家庭購買組合で働き、戦中は全国消費組合協会に勤務)に「日本の生協の歴史は誕生以来、戦争に強く影響され、翻弄された歴史だった」と聞かされました。その後、日本の生協運動史の編纂などにかかわり、そのことがわかり、賀川さんや中林貞男会長が「平和希求こそ生協の理念」と強調していたことが理解できました。
 日本に最初の生協が誕生したのは1879(明治12)年です。明治期には日清戦争、日露戦争があり、その影響を受けながら地域、職域の生協だけでなく共済、医療など各種生協が誕生しました。一方で労働組合と一体だった労働者生協は解散させられました。大正期には第1次大戦後の恐慌や労働運動の高揚などと大正デモクラシーといわれる潮流のなかで、コープこうべなど現在につながる市民生協や労働者生協が誕生しました。
 生協と戦争の歴史を考える場合、もっとも大きな影響があったのは、満州事変(1931年)から始まる15年戦争で、そのもとで生協の諸活動への政治的締め付けが強まり、労働者生協や学生生協などが解散に追い込まれ、太平洋戦争(1941年~)に入ると市民生協群も組織・事業のすべての面で戦時体制の締め付けを受け、最後には空襲等の直接的な被害もあり、壊滅状況になります。
 第1部「戦前・戦中の生協運動」では、簡単に日本の生協の創成期、明治期にもふれて太平洋戦争まで(戦前)と太平洋戦争期(戦中)の戦争と生協の歴史の特徴について述べます。 第2部「生協の平和活動の歴史」では、その戦前・戦中の教訓から「平和とより良い生活のために」を基本理念にして発展してきた生協の平和活動の特徴を述べます。
 生協はなぜ戦争に反対し、反核・平和の活動に取り組むのか?この歴史に学ぶことで理解がふかまることを期待いたします。
第1部 戦前・戦中の生協運動

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本ブログの再開について

本ブログは2年ほど前から、新たな記事の掲載をやめていました。大変申し訳ありませんでした。
このたび、共同運営者の「かしょう」が管理人を代わり再開することにしました。
あらためて、生協OBの共同ブログとして、生協関係の皆さんが投稿、閲覧、交流に参加されることを期待いたします。

再開、第1号として少し長い論文ですが斎藤嘉璋の「生協と戦争、平和ーその歴史」を掲載します。
安倍政権の「戦争のできる国」を目指す動きが急ななかで、参考にされることを期待します。

第1回・目次

生協と戦争、平和――その歴史

第1部 戦前戦中の生協の歴史
1、 日本の生協の創成期
2、 「新興消費組合」の誕生と発展
(1) 家庭購買組合など市民生協の特徴
(2) 労働者生協と関消連、東京学消など
(3) 組合員活動、家庭会・婦人部活動の特徴
3、 満州事変から日中戦争へ―思想的政治的弾圧
(1) 関消連、東京学消への弾圧強化、解散へ
(2) 香川豊彦等への思想的政治的弾圧
4、 日中戦争から太平洋戦争―戦時統制の強化と生協
(1) 組織統制―政党も労組も解散、個人の自由はなし
(2) 経済統制―生協事業の自由喪失
(3) 太平洋戦争と敗戦―生協に壊滅的打撃
5、 戦争の時代と生協


第2部 生協の平和活動の歴史
1、“平和”は日本の生協の理念
2、原水禁運動の最初――生協の婦人組合員の取り組み
3、生協の反核・平和活動の歴史
 (1)日本生協連中心の反核・平和の取り組み
 (2)統一原水禁運動への参加
 (3)原水禁運動の再分裂―生協独自の取り組み
4、生協の平和活動の特徴
  (1)母親の立場から、被爆者とともに、世界の人々と
  (2)なぜ“平和”かー最近気になること

(中)この小文は、いばらきコープの「コープまなびの場」での講演(2015年1月)を
   もとに加筆したものです。

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「生協の平和活動の歴史」2

斎藤 嘉璋
「協同組合塾」での話の最後に「最近気になること」として、安倍総理の「侵略戦争」に関する姿勢、橋下維新代表で問題になっている「従軍慰安婦問題」、憲法問題などについて触れた。麻生副総理のナチスに習いたいという発言をふくめ、政治家の歴史認識には恐ろしさを感じる。しかし、諸外国から見ればそんな政治家に政治を任している日本国民の歴史認識に問題があることになる。今回「平和活動の歴史」を語ったが、「戦争の歴史」をもっと語り合う必要があるのでは感じています。

「協同組合塾」講演要旨
「生協の平和活動の歴史」2

3、生協の反核・平和活動の歴史
            別紙「生協と平和歴史年表」、史料「反核・平和の活動」参照--不掲載。
1) 日本生協連中心の「反戦・平和」の取り組み(1945~1976年)
日協同盟は1949年に「平和擁護300万署名」に取り組みました。日本生協連は54年のビキニ水爆実験のあとICAのパリ大会に代表を送り原水爆禁止の決議を提起し、57年のストックホルム大会でも同様のアピールをしました。
60年の安保条約の改定問題ではそれが戦争につながると反対し、65年にはベトナム戦争反対の決議をしました。会員生協も日本生協連と同様に反戦・平和あるいは原水爆禁止で組合員に訴える等の取り組みを続けました。しかし、60年安保闘争を除けば他団体と共同して大衆的な行動をとるといったことはあまりしませんでした。原水禁運動も1963年に原水協から社会党・総評が脱退するなど盛り上がりを欠きました。

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「生協の平和活動の歴史」1

斎藤 嘉璋
ヒロシマ、ナガサキでの平和式典と原水爆禁止世界大会が間もなく開催されます。かっては10年あまり続けて参加していたのですが、3年前に久しぶりに参加してからは現地に行っていません。せめて生協の若い人達にその歴史を伝えるくらいのことはしたいと思っていたところ、7月にその機会を得ました。その折(日本生協連の「協同組合塾」での勉強会)の報告要旨をまとめましたので掲載します。

協同組合塾での講演要旨
                         2013年7月 斎藤 嘉璋
生協の平和活動の歴史

1、“平和“は日本の生協運動の理念
 1945年、終戦直後の11月に日本生協連の前身組織・日本協同組合同盟(日協同盟)が創立されます。創立総会で賀川豊彦はじめ戦前からの協同組合のリーダーたちは300万人をこえる犠牲者と国土の荒廃をもたらし、生協運動も壊滅させた大戦からの復興と再生への思いをこめて「本同盟は協同組合の普及発展を図り民衆生活の維持安定及文化の向上を期し以て民主主義的平和国家を確立し更に協同組合の国際的結合に依る世界平和の実現を目的とする」(規約第4条)ことをうたいます。
日協同盟は綱領や運動方針大綱で民主主義と平和な日本の建設、そのための協同組合運動の発展、統一と団結の大切さをうたいました。
 1951年、日協同盟は生協法に基づく生協の連合会として日本生活協同組合連合会(日本生協連)を創立、活動を継承します。日本生協連は綱領で「世界平和の確立」、創立宣言で「平和と、より良き生活こそ生活協同組合の理想であり」「最大の使命」であるとうたい、「平和宣言」を採択します。日協同盟の反戦・平和の理念を引き継いだものですが、ちょうど朝鮮戦争がはじまり、日本がその前線基地となるといった切迫した情勢がありました。
 創立宣言で使われた“平和とより良き生活のために”は、その後長らく日本生協連はじ
め全国の生協運動のスローガンとして使われます。そのスローガンは国際学連のスロー
ガン“平和とより良い未来のために”から転用して東大生協で初めて使われました。東大
生協の学生理事で日本生協連設立準備委員であった福田繁さん(のち日本生協連専務理事)
が提案したものですが、発祥の地である東大生協はじめ大学生協では「生協は生活が先の
方がいい」と「より良き生活と平和のために」をスローガンにしていました。私の学生の
頃の早大生協も「生活―」でしたが、日本生協連に就職すると「平和が先だから」と注意
されました。賀川さんや中林さんの強い想いもあったと思います。

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原発はイケン


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原発はイケン
原発再稼働 5原発10基・申請強行 経済成長に欠かせないと。
 
福島県9条の会の案内に沿って、先月末福島、原発被災地の南相馬に一泊二日で82歳の方も含めて22人の生協OBの仲間を中心に行ってきました。

南相馬小高・浪江町請戸(四街道への避難者の住居跡など)です。まさに百聞は一見にしかずでした。

政府が決めた避難指示解除準備地域にも行ったのですが被害が深刻な地域でした。地震と放射能汚染により農業や漁業が絶望的です。被災者住民がほとんど長期に帰宅が叶わぬ地域だといっていました。当地の九条の会の被災漁民が五時間にわたって説明しました。
四街道から初めて参加された方は(「原発問題への考え方を問うこと」が未来に対する人の心を試すリトマス試験紙になっている。原発維持賛成者には、「福島の現場を見て!感じて!考えて!」と叫ぶことが最短、最良の一言ではなかろうか? それが私の今回のツアーで得た結論です)と。

私は、目の前の子ども・未来のこどものいのちと暮らし、のために後期高齢者として生きる間は仲間とともに草の根で動くつもりです。経済成長をかかげ若者の人気を集めているとされる為政者が実は膨大な費用をかける原発推進という最も不経済なことをしていることを若者に伝えるのも年寄の務めですね。そして命の優る価値はどこにもないことを自戒を込めて語り合うことが肝心だと思います。

日本国憲法草案に多大の影響を与えたけ故鈴木安蔵氏の生家  福島県南相馬市JR小高駅 (閉鎖) 付近。2011-3・11より崩壊のままの塀の前で。私たち意外周りには人一人いない。異様な無人地帯・。2013-6-24日10時半現在  ((TH)

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あとに続くものを信じて走れ   故井上ひさし

(haru3)あとに続くものを信じて走れ   故井上ひさし
四街道9条の会8周年記念で九条の会事務局長の小森陽一は「憲法と井上ひさし」の題で話された。井上ひさしのフアンの一人として興味深いものでした。氏の生前最後の戯曲に「あとに続くものを信じて走れ」の1節があります。あとに続くものを信じて・・・といえる生き方をしてきた井上ひさしならではの言葉です。氏の生涯は「日本国憲法」につらぬかれ晩年期は九条の会の呼びかけ人の一人として身を粉にしたのは周知のとおりです。人間尊重の文化の確固たる造詣があってのことだったと思います。

千葉でいくつかの井上ひさし「講演」企画にかかわったのですがその都度その感を強くしました。特に倒れる寸前(8月)の被爆者友愛会のフェスティバルでの講演は、平和への希求は詳細を極めていました。氏が手元においた自筆の講演用レジュメ資料には国際法・歴史、平和へ系譜がぎっしり書き込まれていました。まるで法律・歴史・政治の研究者のように平和の現実的可能性の追求を怠らなかった作家ということができます。
さてこの間、にはかに「国防軍」規定を含む憲法改正案が発表されました。ついで96条改正が登場しました。井上ひさしが存命なら憲法の全面改訂壊憲」への入り口でだというでしょう。「平和憲法の 改憲  壊憲 と 原発再稼働 が一体」となって政治が動き出していることにも・。「あとに続くものを信じて走れ」の言葉が身に迫ってきます。

「全国96条の会の賛同呼び掛け」に賛同
私は待ってましたとばかり「全国96条の会の賛同呼び掛け」(添付)に賛同しました。手続は簡単でした(添付)。6月27日現在2000名を超えて賛同者が公表されています。千葉県から20名前後・四街道から1名でした。これから増えていくのでしょう。まだ憲法学者・弁護士・革新の地方議会議員が多いのですが主婦・農民・年金者、無数の職業経験者に「垣根を越えて横に広がっている」ことが読み取れます。大同団結が求められる中 改憲阻止・活憲の貴重な取り組みだと思います。

        原発再稼働 5原発10基・申請強行  
福島県9条の会の案内に沿って、先月末福島、原発被災地の南相馬に一泊二日で82歳の方も含めて22人で行ってきました。南相馬小高・浪江町請戸(四街道への避難者の住居跡など)です。まさに百聞は一見にしかづでした。政府が決めた避難指示解除準備地域にも行ったのですが被害が深刻な地域でした。地震と放射能汚染により農業や漁業が絶望的です。被災者住民がほとんど長期に帰宅が叶わぬ地域だといっていました。当地の九条の会の被災漁民が五時間にわたって説明しました。四街道から初めて参加された方は(「原発問題への考え方を問うこと」が未来に対する人の心を試すリトマス試験紙になっている。原発維持賛成者には、「福島の現場を見て!感じて!考えて!」と叫ぶことが最短、最良の一言ではなかろうか? それが私の今回のツアーで得た結論です)と。私は、目の前の子ども・未来のこどものいのちと暮らし、のために後期高齢者として生きる間は仲間とともに草の根で選択をし続けるつもりです。経済成長をかかげ若者の人気を集めているとされる為政者が実は膨大な費用をかける原発推進という最も不経済なことをしていることを若者に伝えるのも年寄の務めですね。そして命の優る価値はどこにもないことを自戒を込めて語り合うことも。選択の時。
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改憲勢力阻止のアピール

紹介ー斎藤 嘉璋
7月6日の朝日新聞は参議院選に向けての世論調査の結果「自民、維新、みんな、公明4党の獲得推計議席は90前後に達しており、(現有議席と)単純に足し合わせると162前後に近づく。」と報道しています。162議席は定数の3分の1であり、憲法改正が可能になるということです。早稲田大学の先輩たちのアピールを紹介します。



参院選では改憲勢力の伸長を阻みましょう
     1950年代に早稲田大学で活動された諸兄姉へ

 梅雨はまだ明けませんが、真夏のような暑い日々が続いております。皆様、いかがお過ごしですか。
私どもは、昨年5月8日、早稲田大学で「第2次早大事件60周年記念の集い」を開催させていただいた実行委員会のメンバーです。その節は多大なご協力をいただき、ありがとうございました。おかげさまで「集い」は成功裡に幕を閉じることができました。
 さて、皆様ご存じのように来る7月21日(日)に第23回参院選挙が行われます。これに向けて各政党は公約を発表しましたが、安倍政権与党の自民党はその中で「憲法改正に積極的に取り組んでいく」と述べ、改定の中身として①天皇を元首とする②集団的自衛権を含む自衛権の名の下で国防軍を設置する③憲法改正の発議要件を「衆参それぞれの過半数」に緩和する、などの点を挙げています。
 自民党に、やはり改憲を目指す維新の会などの政党を加えた改憲勢力が、こんどの参院選挙で過半数を占めることになれば、改憲に向けた動きは一気に加速するでしょう。6月23日に行われた東京都議選では自民党が圧勝し、参院選挙に向けて弾みをつけました。

 私たち、1950年代に早稲田大学で学んだ世代は、在学中、さまざまな課題を掲げた運動に関わりました。まさに当時の早稲田は、東大と並んで学生運動の拠点でありました。当時の学生運動を体験した政治学者の高橋彦博・法政大学名誉教授(早大政経中退・法政大学大学院修了)は「50年代初頭の学生運動は、学生たちのイデオロギー過剰な演説や決意表明とは別に、公布され施行された新憲法の定着過程を担う大衆運動の役割を果たしていた」(『「週刊金曜日』2002年7月26日号)と位置づけています。
 私たちの、青春を賭けたあの運動こそ、人類の叡智の結晶とまで言われ、戦後民主主義のバックボーンとなった日本国憲法(平和憲法)を国民の間に定着させるための闘いであったというのです。
 しかし、私たちが今、直面しているのは、そのバックボーンが解体されかねないという危機的状況です。私たちのこれまでの全生涯が否定されてしまうようような気がして落ち着きません。私ども実行委のメンバーは、戦後民主主義を敗北させてはならない、孫たちを国防軍の一員として戦わせてはいけない、と考えます。

 1950年代に早稲田大学で活動された諸兄姉に訴えます。
 参院選では、改憲勢力のこれ以上の伸長に歯止めをかけましょう。護憲勢力を1人でも多く増やしましょう。私たちはもう若くはありません。私たちにとっては、いわば“最後の決戦”です。あらゆる機会をとらえて、家族や友人、知人に働きかけましょう。

            2013年6月27日
     「第2次早大事件60周年記念の集い」実行委員会
  岩垂 弘 岡本好廣 関千枝子  芹澤寿良 高倉三郎
  高橋英夫 豊吉重充  中藤泰雄 増田興一
    

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